山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

サーファーの罪と罰

昨晩は、「ステップ・イントゥ・リキッド」というサーフィンのドキュメンタリー映画をビデオにて鑑賞しました。日本でもヒットした映画だから知っている方は知っていると思います。

実は私は、サーフィンが好きです。(いえ、ちょっとしかやったことないけど)しかも、幼少のころより、サーファー的なひとが好きであります。バカとか女好きとかいい加減とかいろいろサーファーに対する偏見やら真実やらがあるとは思いますが、まあ、サーファーさんたちは、かっこいいです。かっこいいひと多いです。(これは今も昔も変わらん)

だって、かのキムタクだってサーファーでっせ。
と言う話はおいといて、映画の話でした。そんなわけで、海好き、サーフィン好きな、およそ、文学や小説とはかけ離れた趣味をもつ私ですが(そうでもないか)このサーフィン・ドキュメンタリー良かったです。

それほど、強烈な内容ではないのですが、ひとはなんでサーフィンするのかしらんという素朴な気持ちをどんどん追いかけているようだし、サーフィンって波がないとできないから、偶然のスポーツだし、そして、ひとりでやるもの、ってところがしびれますね。

なかで、ひとりのサーファーが言ってた台詞が秀逸でした。
「ハリウッドのサーフィン映画では、サーファーは最後にはサーフィンをやめて、まともな仕事を見つけるか、海の事故で死ぬかどっちかなんだよね。いつまでも遊んでいるんじゃないってのがメッセージだ」(みたいなこと)

ほら。
サーファーってバカじゃないでしょ。ちゃんとハリウッド映画のわかりやすい説教節を見抜いている。ハリウッド映画というのは圧倒的多数を相手にする商売ですから、大衆に訴えるテーマを選ぶわけですね、筋書きも。

それは、「復讐するは我にあり、我、これを報いん」という聖書の言葉であり、かの「アンナ・カレーニナ」(byトルストイ)の冒頭に掲げられた文句でもあります。どういうことかというとね、ひとは自ら犯した罪によって、自ら滅びるものだ、というような意味です。

具体的に説明しましょう。 アンナ・カレーニナは人妻でした。とても仕事熱心でお金持ちの夫を持っていました。にもかかわらず、年下でハンサムなウロンスキー伯爵と恋に落ちるわけです。でもっていろいろあって、鉄道自殺します。死ぬんです。

この小説についてトルストイが語ったところによると、「アンナのような奔放な女には、倫理的な罰を与えるべきと多くのひとが思うだろう、けれども、手を汚すことはない。なぜなら、自ら滅びて行くからだ。ハッハッハ、いい気味」とトルストイが笑ったのは嘘ですけど、まあ、こんなことを言ってたと資料にありました。(私はロシア文学専攻でした)

で、ハリウッドのサーフィン映画。サーファーは心を入れ替えて、サーファーじゃなくなるか、もしくは「死」です。これは、一般のひとびとがいかにサーファーを憎んでいる、嫉妬しているかの表れでしょう。

波乗りばっかりしやがって、金もないくせに、女にはもてやがって・・と思っている。だからそんな奴はサーフィンやめないなら、死んでくれっていうのが大衆の望むところなんですね。

かっこいいサーファーが途中で死ぬ。そこで、泣きながらも客は、「快哉」を叫ぶのです。俺はサーフィンやらないし、女にもてないけど、死なないもんね、と。これで安心して映画館を後にできる。一緒に映画をみた女子も『サーファーかっこいいけど、死んじゃうもんね、苦労するより、ちょっとつまんないけどコイツにしとくか」と彼氏を優しい目でみるわけです。デートにぴったりの映画です。つまり、

サーファーはサーファーであるだけで、「罪」な出来事なんです。だから、死という「罰」が用意されている。

けれども最近流行らないハリウッド映画。もう、サーファーは死ななくてよい時代が来たように思います。だって、「ステップ・イントウ・リキッド」ではサーファーは死なないんですよ。(そして、浮気した人妻ももう、死ななくてよい時代が来たんです)

そういうところまで考えてしまった。いえ、もっとお気楽な映画なんですけれども。昨晩から、もう、ハワイに行きたくて、行きたくてしびれております。

サーフィン、最高っす。