山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

映画「戦場でワルツを」

数日前に、DVDにて、「戦場でワルツを」を見ました。

いやーすごかった。すごい作品見ると、「すごかった」みたいな簡単な言葉しか出てこなくなる。批判する言葉やごまかす言葉はたくさん知っていても、すごいなーと思った時は、言葉のバリエーションが少なくなる。

そんなんでいいのかよ、自分…と自分を責めるのはほどほどにして。

まず、アニメーションである。これほど、アニメーションであることがぴったりというか、アニメーションである必然を感じた作品って見たことがない。

アニメーションでしか描けなかった作品だと思った。

監督は、イスラエルのアリ・フォルマンさん。実際、兵士だった経験があり、1982年にレバノンで起こったパレスチナ難民大虐殺の現場にいたらしい。

らしいと言うのは、監督本人もその記憶を封印していて…というか記憶をなくしていて、当時の戦友から、今も悪夢にうなさる…と相談されたことをきっかけに、「なせ、自分はその時の記憶がないのだろう」と気づく。

戦友は、テロリストを捜すために、その見張り役の犬たち26頭を撃ち殺しているのだ。今でも、26頭の犬が襲ってくる夢を見る。

しかし、当の監督には、その場所にいたはずなのに、記憶が抜け落ちている。忘れていたことすら、忘れている。

こうして、監督は自分の記憶が消えた理由を求めて、当時一緒に現場にいた友人の兵士たちを尋ね歩く。実際に監督自身が兵士だったとしたら、こういう内容なら、実写で撮っていく…というのが一般的だろう。

「デボラウィンガーを探して」とか「ボーリング・フォー・コロンバイン」とか、監督が主体になって尋ね歩くスタイル。

でも、この監督はそうしなかった。あえて、アニメーション・ドキュメンタリーという手法をとった。それは、実際のカメラの前では話してくれるひとが少なかったからかもしれないし、証言だけでは弱くなるし、

一方で、戦争の現場や当時の様子の実写がそれほどなかった…あるいは、悲惨すぎて実写では耐えられないからかもしれない。

が、そういう消極的な理由というよりも、たぶん、アニメーションというリアルではない手法によって、戦争の記憶がひとそれぞれ違っていて、どこからが想像力でふくらませたもので、どこまでがリアルな記憶なのか…という問いそのものを提示できるからじゃないだろうか…と思った。

いくらでも、大げさに悲惨に描くこともできるのに、あくまで、自分の記憶と友人たちの記憶の繋ぎ合わせを冷静に行うとしている姿勢にまず、打たれた。

一方で、銃撃戦のど真ん中で、まるでワルツを踊るように、機関銃を連射する兵士の様子などは、妙に詩的でもあるけれど、叙情にながされていない気がした。

監督は、何人もの兵士に会うことによって、記憶を繋いでゆくけれど、決してひとつの事実にたどり着くのではなく、記憶は幾重にも重なっていく。結論なんて、出せるわけないじゃないか…。

その手法にも唸った。

そして、音楽の使い方も渋くて、すでに、ショパンの7番のワルツ(機関銃を連射するとき流れる)と、バッハのゴルトベルク変奏曲、買ってしまった。あ、これは余談。

そして、映画は最後だけ、実写になる。

うー。

難民キャンプでの虐殺はひどい行為である。もちろん、そうなんだけど、その行為のひどさだけをジャーナルに伝えるのではなくて、それを経験した側、見ていた側、伝える側の衝撃や記憶の定着のしかたまで含めて、傷とか痛みとか悲惨さとはなにかってことまでを描きだしていたように思った。

ある意味、演出の勝利。

けど、その演出が、「こうしたらより強く伝わるだろう」「インパクトを与えよう」というマーケッティングみたいなものとは無縁で、「こういう形でしか、伝えられなかった」という演出法の必然が感じられて、そのことにまた、唸るのだった。

どうしても、撮らないといけない映画、撮られるべくして撮られた映画って気持ちになる。

はまりました。