舞台「海辺のカフカ」と村上ワールド
そんなわけで、昨日は、さいたま芸術劇場まで舞台「海辺のカフカ」を見に行って来た。
かの村上春樹さんの原作、蜷川幸雄さん演出の作品である。
主演は柳楽優弥くん。
彼にとって初舞台となるし、なんだか、ぴったりな配役だと思い、出かけて行った。
柳楽くん、頑張ってた。
主人公の海辺のカフカ…田村カフカくんは、父親とうまく行かず、本の好きな少年…という、どこかで聞いたいような設定…ええ、自分の小説と映画の主人公と同じなので、今更びっくりした。
父とうまくゆかずに家出して、泊めてもらう先が、「さくら」さんという年上の女性。
これをですね、佐藤江梨子ちゃんがやってるんです。
うわーうわーと心のなかで大騒ぎしながら見てました。
このさくらさんのキャラクターは自分の映画のキャラとそれほど似てないけど、二人の関係性はちょっと似てて、ひゃっとしたわけです。
でも、このさくらさんを演じる佐藤江梨子ちゃんがはまり役でよかった。非常になじんでいた。
そんなふうに一喜一憂しながら、大仕掛けの舞台を見て来ました。
帰りに楽屋で柳楽くんと江梨子ちゃんに会えて、二人とも目が輝いてて、生き生きしてて、とても嬉しかった。力を出し切っているひとたちはなんだか、すがすがしい。
それと、この舞台を見ながら、表現するってことは、褒められたり、評価されたりといい面もあるけど、同時に批判されたり、冷笑されたりする可能生もはらみながらも、そんなもん、気にしない!という大きな勇気で貫いていかないといけないんだとゆうこと。
表現して発表するってそうゆうことだったよなーとしみじみ思ったのでした。
表現しないで批判だけしているのって、自分を安全な場所においてることになり、それは確かに安全で誰からもつっこまれずにすむけど、でも、それじゃつまんないよね、と思いました。
なにをいまさら…ということですが。
それでもって、偶然というか、タイトルにひかれて買った「女の子を殺さないために」という評論が面白くて。
これ、村上春樹さんの小説の読み解きだったんですね。知らなかった。
自分の映画のなかでも言及しているけど、「若くてかわいい女の子が死ぬ話」が19世紀の文学に多すぎる!と思っていて、それが、20世紀でも連綿と受け継がれていて、それをどうにもこうにもいやだと思って来た自分がいるわけです。
だって、読み手である自分は、物語のなかで、必ず死んでいく女子の立場だったから。
同時に、そのような、「死んでいく女子」というのは、たいていかわいくて、ちょっとお転婆で…みたいな少女で、およそ、自分とかぶるところがなかったから。
どんな面白い小説にも、自分に似た人が出てこない…これが長い間の不満だった。
普通の男子なら、主人公の、女の子に翻弄された挙げ句に、ひとり取り残される、「ごく普通の僕」に感情移入すればいいんだろうけど、あいにく、自分は男子ではなかったので、そういう読み方ができなかった。
かといって、物語だけを楽しめるほどに優雅ではなかった。
というわけで、「なんで、物語のなかで、女の子は若くして死ぬんだ?」と思って来たので、このタイトルを見たとき、「やられた!」と思ったのだった。
なぜ、「やられた!」かといえば、自分が書くより先に書かれたからであった。(いえ、評論をまじめに書いたことないので、「やられた!」もなにもないんですが…)
この評論では、村上春樹さんの源流を庄司薫さんに見ているんですねー。
おーここも、「やられた」感満載。
いや、しかし、私はこの符合に気づいてなかったです。なぜなら、庄司薫さんの小説では女の子は死なないからね。でも、似てるんですねーいろいろと。
で、前述の「海辺のカフカ」に戻る。
これは「幼なじみ」のお話だったんだなーと。
確かに「ノルウエイの森」も幼なじみのお話だった。
が、自分は、あまりそこらへんを意識しなかった。まったく、別の視点から読んでたわ。
(参考までに映画「ノルウエイの森」についての感想)
あまり「幼なじみ」という概念に興味がなくて。
でも、この評論によると、「幼なじみ」って日本の文学では、結構人気のあるテーマというか設定であることがわかりました。
そーなんだ、そんなに、いいんだ、幼なじみ。
幼なじみを亡くした男が彷徨する物語多種。
これにシンパシー持てる人ってどれくらいいるんだろう。自分は幼なじみいないので、殆ど全く、感情移入できなかったけど。
…というわけで、たいへん、興味深く読んでます(まだ、途中ですが)。
はからずも、「ハルキワールド」に染められている昨今でした。