先日、「ホドロフスキーのDUNE」というドキュメンタリー映画を見まして、ドキュメンタリーのあり方について、思い巡らせております。
この映画は、ホドロフスキーという「エル・トポ」「ホーリーマウンテン」などの作品で知られる、チリの映画監督が、「DUNE」というSF小説を映画化しようとして、なぜ、できなかったかについて、語るドキュメンタリーである。
映画が出来ていく過程を撮ったドキュメンタリーは多い。いわゆる「メイキング」というカテゴリーになり、テレビでも、「メイキング」を装った宣伝作品はたくさんあるし、自分も「メイキング」というジャンル、舞台などでも撮ったことがある。
けど、「できなかった映画」についてのドキュメンタリーは珍しい。どうしても愚痴になるだろうし、だいたい、「素材」がない。
(素材とは、撮す対象のことです。撮ってない作品には撮られたフィルムがないから)
(以下、ネタばれもあります)
けれども、この「DUNE」はちがうんだよねえ。電話帳(古い!)3冊分くらいはありそうな、分厚い、脚本というか、衣装や美術セットにいたるまで、細かく描かれた企画書のようなものがある。
メインは、監督のホドロフスーのインタビューだけど、まず彼が魅力的。話すだけで面白い。出来なかった映画について語っているはずなのに、明日クランクインを迎えそうなくらい、生き生きと作品について語る。楽しそう。その映画は今でも彼のなかにしっかりとあるみたいだ。
出演するはずだった各界の有名人。ミック・ジャガーとか、とにかくすごいし、監督本人が世界中を旅して、出てほしい人、作品に加わってほしいひとに、直談判している。うー、そうなのか。
そういう交渉の仕方も面白いし、(参考になるし…っていうか、勇気づけられるし)、そうやってできてきた、デザインがまたすごい。
宇宙人(でいいのか)の衣装とか、秘密基地とか。
斬新で格好良くて、絢爛で面白い。
そういう過程を見ていくなかで、でも、苦い現実にもぶち当たることになる。
映画化中止になるわけだ。
ハリウッドのなだたる映画会社に企画書は持ち込まれたけど、ホドロフスキーには任せられない、となる。
わー、痛い、痛い。
だって、彼の企画なんだよ。
ハリウッドサイドの言い分は、ホドロフスキーだとカルトムービーになっちゃうんじゃないかってことらしい。大きな予算が動くのだから、世界的に大ヒットしないといけないのだ。
大ヒットさせるには、カルト的な監督じゃだめで、もっとわかりやすく撮ってくれる人じゃないとね。
そうなのね、昔から、いずこも同じなのね。
まあ、そのような過程を知っていくのも面白かったけど、彼のデザインや意匠がその後の映画界に与えた影響というのも、すごかった。あの名作もこの名作も影響受けていたなんて…。ホドロフスキーの偉大さがわかると同時に、少し苦い思いがする。
最初に考えたのは彼なのに…。
けれども、彼の遺伝子が世界中の作品のなかにちらばった、と考えたら、それはそれでよいことなのかもしれない。
作品は誰のものでもない…。
芸術作品ってなにかしら…という初心に戻ることもできたし、ものづくりの基本についても引き戻された。
刺激満載の作品だった。
ドキュメンタリーとしては、ごくオーソドックスなつくりだった。
最近、ドキュメンタリーのありようについて考えていて、「アクト・オブ・キリング」の大胆さや、一方で想田和弘監督の作品のように、ナレーションなし、テロップなし、説明なし、みたいな方向もあり、作り方はなんでもありななかで、なにを選択するかだよねと思っています。
いろんな試みをやってみたいわ。
「失敗してもかまわない、それもひとつの選択なのだ」って。