今日もまた、映画「アルフィー」について。
アルフィーは女好きで、すぐにふたまた、みまたかけるひとなんだけど、それがばれて、つきあっていた女たちから怒られるたりする。しかしね、つきあっていた女たちにしたって、ひとりは人妻だし、ひとりは婚約者のいる身だったりして、「お互いさま」なんだよね。
よおく、考えるとアルフィーばかりを責められない。
そして、さらに大きな疑問が浮かんでくるわけ。やはり「結婚の国、カップル文化」の国・アメリカだからでしょうけど、「たったひとりのひとを愛して添い遂げるのが正しい」ってテーゼ。
いえ、もちろん、それができるひとはすればいいし、それでいいと思うけど、なぜ、複数とつきあったり、愛したりしてはいけないのでしょうか。その疑問をまっこうから否定しているというか、考えてもいけません、って感じなんだよなあ。
「多情仏心」という言葉がある。多くのひとを愛するのは仏の心、みたいな意味かなあ。同名の小説が里見トン(漢字がでないので失礼)先生の作品にありますけど、ほんとは日本ってそういう文化の国だったんだよねえ。江戸時代なんかは特に楽しくやっていたらしい。
(知らないけど)
「たったひとりにすべてを」っていうテーマって、それができないひとを暗黒の気持ちにさせるってことがわかってないよなあって思うんですけど。
アルフィーにしたって、「ひとりの愛するひと」を見つけようかなあと思うのは、病気のときだったり、友達がいなくなったり、要するに「マイナス」のときだけなんだよね。もちろん、年をとるということは、「マイナス」が増えることだから、若いうちはともかく、年をとってからのことを考えて、安心できる「ひとり」を確保しておくのは悪くないとは思うけど、じゃ、年をとっても「マイナス」のカードと無縁でいられるのなら、「安心できるひとり」はいなくてもいいんじゃないの?という疑問は浮かぶよね。
実際、映画「アルフィー」のなかにもそういう存在がでてくる。成功した化粧品会社のオーナー(女性)は、50代になっても男をとっかえひっかえ。別に淋しそうでもない。とかく、こういう問題のとき、「男は年とっても変わんないけど、女はひとりの相手を求めるもんよ」とう言説があるけど、あれって嘘だよね。これまで、女で自分の力だけでリッチなひとが少なかったからであって、そういう欲望の量ってほんとは男女差ないのだと思うなあ。
そんなわけで、小泉内閣が大変なことになっていても、こんなことを延々考えているマヌケでした。