山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

勃たたない男

今日は、内藤みかさんの小説「いじわるペニス」を読みました。

いやあ、打たれました。
まず、いきなりのセックスシーンからはじまるので、最初ひくわけですが、しかしですね、この方の書く、セックスシーンって全然エロくないんです。内容的にも、単語的にもかなり際どいことが書かれているのですが、なんだろう、正直さというか、底に流れる、ひととしての潔さというか、「汚れ」が感じられない。官能小説家であるから、もっとエロいって思わせないとだめなのかもしれないけど、(いえ、私は全然そんなこと思わないけど)、官能小説の形をかりた、立派な純文学だと思いました。

こう書くとさ、純文学>官能小説なんですか?純文学はそんなに偉いんですか?と官能小説家のかたから批難されそうなので、一応言っときますけど、どっちが偉いなんて思ってませんから。それぞれに目的も存在意義もあると思っているので、誤解なきよう。

私が純文学と思うのは、それが、他のどんな小説とも似ていない、それだけで屹立しているものであり、なおかつ、多くのひとに通じる、ひとが生きるうえで派生するなにかについて、書こうとしている、書かれているものだ、ということです。

(一方、私の理解のなかでは、「官能小説」とは、ひとを性的に興奮させることを目的に書かれたものだと判断しています。当然ながら、優れた官能小説もあれば、つまらない純文学も存在します)

そんなわけで、「いじわるペニス」
主人公はさえない29歳の派遣OL。同じ会社の恋人がやはり同じ会社の別の女とできちゃった結婚をしたせいで、おちこみ、新宿二丁目でウリセンといういわゆる売春をする若い男を買うようになるお話です。

主人公の心持ちというのが、あまりにせつない。相手はお金をだして(一晩三万円)買った相手だというのに、どこか「恋愛」めいたものを期待しちゃうんですね。なのになかなかかなえられない(当然のように思うのですが)、だけじゃなく、好きになってしょっちゅう買う男が(22歳くらい)「勃たない」んですよ。

いやあ、きついなあ。 主人公は年上だからって自分を卑下するけど、まだ29歳ですよ、男をその気にさせられないほどの年齢じゃありません。じゃ、なんでその売春夫は勃たないのか。真相は読み進むうちにわかる、というより、読み手である私には最初からそんなことわかるのですが、主人公はウジウジと本の最後まで、「勃たない理由」がわからないんですね。

いや、わかっていたのかもしれない。わかっていても、どうにもならないことはあるし、わかってもやめられないこともある。主人公は、いつも「やってもらえない」淋しさに他の男娼も試したりするんです。そこにあるのは、単なる性欲ではあるんですが、やはり、「性欲」をこえたもの、あるいは、性欲ってなんだろうか、と思わせる記述がたくさん出てくる。

主人公はバカで間抜けだと思います。そんな「勃たない」男娼に溺れ、貢ぎ、借金を重ね、自ら風俗嬢にもなってしまう。ほんとうに愚か者です。けれども、この愚かものの気分こそに「恋」や「愛」に近いものを感じてしまうのは、私もまた、バカで間抜けな愚かものだからでしょうか。

長い人生、いろんなことをやってきたつもりでも、売春は買う方も売る方も経験ないんですよねえ。(って告白することか)例えば、「罪と罰」はじめ、「舞姫」でも「墨東奇談」でもいいんですけど、「売春婦」が出てくる小説はいろいろあります。たいてい、売春婦は天使的に描かれているわけですが、男娼はそうはいかない。男娼は全然天使じゃない。けどね、天使じゃなくて、悪魔でもない、ツマラナイ(ついでにたたない)奴だからこそ、愛しいというもの、こういう気分って、まださ、小説という19世紀に生まれたジャンルではきちんと描かれていないのではないか、なんてことまで考えました。

傑作だと思いました。