山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

セクハラ哲学

昨日、セクハラをテーマに書いたら、アクセス数が飛躍的に伸びて、普段の倍であった。幼少より偏差値に左右され、仕事をしてからは視聴率に一喜一憂、本を出せば、売り上げばかり気にする、根っから「数字」に弱い私である。アクセス数のが伸びるので、今夜もテーマはセクハラじゃ。

さて、昨日は同じセクハラでも、20代の女子にするのと40代とでは反応が違う、ということを書いた。しかし、このセクハラってやつ、年齢だけでなく、いろんなアイテムによって、純愛になったりもするのだから難しい。

ひどくおおざっぱに言えば、純愛もセクハラも同じようなもんでしょってことである。(あ、こんな事書くと、純愛派の読者を失うかな・・いいや、最初からそういう人いないから)

強姦について考えても、あれだって、いきなり暴力でもっていたすから犯罪なんであって、順を踏んでデートに誘い、時間をかけて、「好きだ」とか「愛してる」のひとことでも言っておき、相手の了承さえもらえれば、別に犯罪ではないわけだ。(おおざっぱにいうとね)だってさ、やっていることは大差ないではないか。生殖行為に過ぎないわけで。

けれども、そこにいろんな差異を見いだすところが、人類のかわいいところというか面倒なところというか。セクハラだってさ、好みのひとから、誘われたら、それは単なる職場恋愛、悪くても不倫の恋程度のものでしょう。問題はさ、権力をかさにきるってところだよね。いやでも断れないような状況をつくるっていう。強姦が暴力という物理的な力によってなされるなら、セクハラは権力という、社会的な力によってなされるものということができるかしら。

えっと、だからなんだっけ。
セクハラが浮上してきたのは、あきらかに働く女性が増えたからですよね。仕事を目的に来ている女性に対して、別の目的で望むからトラブルってわけで。でも、相手の女性の仕事に対する敬意があれば、セクハラは起こらないと思うんだよな。

だから、セクハラというのは、単に性的いやがらせに対する嫌悪だけでなく、女性の仕事に対する侮辱を含むのだ。ここらあたりがわかる男性って、年配のひとには少ないのでしょうね。(当社比)

そんなわけで、今夜もセクハラについて考えました。