山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

映画「太陽を盗んだ男」

数日前に、映画「太陽を盗んだ男」をみました。79年の作品です。

ざっくり内容を説明すると、沢田研二演じる、高校の理科の教師が、原子力発電所からプルトニウムを盗み出し、原爆を作る、そして、それをネタに日本政府を脅す…という物語。

高校教師は、「革命」を起こしたいわけでも、「お金」が欲しいわけでもないので、せっかく原爆を持っても、どうしていいかわらかなくなり、迷走していく。そういった主人公設定も含めて、斬新でとても面白い作品です。

で、久しぶりにみて思ったのは、これは、「犯罪者の側」から犯罪を描いた作品だなーと。

最近だと、刑事の側から犯罪を描き、犯人逮捕が映画の筋書きのメインになる。たとえば、「踊る大走査線」とかね。

で、そういう映画では、犯罪者は、絶対悪というか、悪人であり、捕まえないといけない存在である。

ところが、「太陽を盗んだ男」の場合、犯人のほうが、刑事より圧倒的にかっこよく、犯人は、国家権力を相手に戦うのである。

「踊る」の犯人たちは、みんな、それぞれ社会から落伍したものたちであり、ちっともかっこ良くない。もちろん、犯罪の目的も国家と戦うなどという大それたものではなく、個人の欲望、それもちょっと変態的な欲望によっていることが多い。

昨今のドラマの犯人たちは、たいてい、精神異常者だったりする。

なんで、そんなふうになってしまったんだろう。

「太陽を盗んだ男」は犯人だけど、かっこいいし、そのやることもかっこいい。

最近では、「告白」やこれから公開される「悪人」など、犯人サイド、悪者サイドから描かれたものもあるけど、この場合も、彼ら犯人たちは、ちっともかっこよくない。社会の犠牲者であり、彼らは国家権力などの「大きな物語」「大きな対象」とは戦わない。

というより、彼ら自身のぎりぎりの生活から犯罪に手を染めていくのだ。

プロファイリングって言葉が知られてから、犯罪をおかすひとは、不幸な子供時代があったとか、家庭環境が複雑だったとかってことになってしまったので、「かっこよく」はいられなくなった。

そう考えてみると、沢田研二演じる高校教師の過去はいっさい描かれていない。ごく普通の教師だった…というくらいじゃないかな。描くほどではないってことで。

一応、彼が犯罪に手を染めるきっかけを作ったのは、修学旅行のバスがバスジャックされるからだけど、今だったら、それだけでは、大きな犯罪を起こすことの説明としては足りない…と突っ込まれそうな気がする。

もともと、不幸な育ちがあったんじゃないの?って、いわれそう。

そういうわけで、時代の変遷をしみじみと思いながらみました。

もちろん、そういう見方をしなくても、十分優れた作品ではありますが…。