山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

セクハラの誕生と成長と衰退

昨日もセクハラをテーマにしたら、アクセス数が伸びていたので、調子に乗って今夜もセクハラだ。いやあ、こういうテーマだと筆が走る、走る・・ってパソコンで書いてますけどね。

かつてはセクハラって存在しなかったわけですよね。いえ、正確にいえば、セクハラめいた行為は各地で行われていたというか、女は、セクハラされて当然だったわけですね。ところが、近代を迎えて、自我の存在が発見され、女もニンゲンではあるまいか、とか、女にも自我があるのではあるまいかってことから、セクハラ的行為はいかん!となってきた。つまり、これがセクハラの誕生ですね。

妻や恋人に暴力をふるうひとがいますが、これらの方たちは、「自分の女に、何をしようが勝手だろ!」という意見を持っている場合が多い。子供に暴力を振るうひとも同じ。子供や妻を自分の持ち物のように錯覚してしまうわけですね。

しかし、猫などでも、出産後、不安があると母猫は子猫を食べてしまったりするわけで、そこには、母猫自我と子猫自我に境界線がないわけです。子猫も自分の一部みたいに考える。かつて、ヒトの女性も子供も猫レベルの自我意識によって、判断されていたので、女子供に何をしようと罪の意識を感じる必要はなかったわけだ。

と、前置きが長くなりましたが、そんなわけで近代的自我の誕生により、セクハラが生まれた。現在はその成長期ですよね。セクハラの概念が大衆化して、多くの人が、「女だってヒトですよ。性的対象だけの存在じゃないですよ」ということを理解しつつある。はい。

そこでセクハラの衰退について考えたいのですが、これはもう、女=SEXとしか見られないオスが絶滅もしくは少数派になれば、完成するわけです。現在はまだまだ、頭では女≠SEXだけとわかっていても、それが身にしみていないひとがおおぜいいる。(主に年配者)

きっと、教育やら文化やらによって、理解が広まれば、セクハラはなくなるでしょう。ああ。そんな日が私が生きているうちにくるかしら。来たらいいな。今だって若い子はずいぶん、そうなってますよね。置いてけぼりにされたオヤジたちが無自覚に、女=SEXという肥大した頭で、アクセクしてる。ハタで見ていて、哀れなほどなので、最近は同情気味でもあります。

というわけで、今夜のセクハラ考現学でした。