山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

「遠まわりの雨」感想続き

土曜日に放送された「遠まわりの雨」の感想を一昨日に書いて、そのあとも、ツイッターに書いていたんですが、反応もあり、書き足りないような気がしたので、続きを書きます。

ツイッターで、鎌倉在住のひとが、「なんで、ラストシーンは鎌倉なんだ?」とつぶやいていたので、「なんでだろう?」と自分も考えました。で、考え出したのは…

ひとつは、さくら(夏川結衣)の暮らす蒲田という日常でもなく、草平(渡辺謙)が暮らす前橋という日常でもない場所を設定したかったんだろうなと。つまり、古都・鎌倉という非日常を舞台にすることで、ふたりの恋が決して、日常ではありえない=成就しないってことを、含ませたんだろうと。

叶わぬ恋だからこそ、舞台は美しく…ってことです。もちろん、鎌倉に暮らすひとにとっては、そこは日常だから、駅で中年の男女に激しく抱き合ってもらっても困るでしょうが、ふたりにとってそこは、「特別の場所」なので、なにをやっても許されるのだろうと。

そして、もうひとつは、ちょっとふざけた見方かもしれないですが、これは、かの大不倫小説「失楽園」への回答ではないかと。失楽園もお互い配偶者のいる者同士の恋愛ですが、彼らは愛を貫き(…っていうか、体の関係を持ち)、鎌倉へ行く。そして、心中してしまうわけです。これに対してですね、山田太一先生は、「そういう関係になって、心中するより、別れて生きよう」というテーゼを出したのではないかと。だから、駅は、「極楽寺」なんです。一歩進めば極楽=死ということを匂わせた…と深読みすることもできます。

それと、もうひとつ、同じくツイッターで、「恋愛を貫くのもいいけど、そこで、踏みとどまるほうが、人生の滋味を描くことになるのでは…」というようなことを書いている友人がいました。なるほど…と考えたあと、出したのは、結局、美学の問題ってことになるなーと。

不倫であろうと、まわりに迷惑をかけようと、お互いの思いに正直になることを美しいと考えるか、気持ちを抑えて、静かに日常に戻っていく姿を美しいと思うかは、もう、それぞれの美学の問題であろうと。けど、ここで、再び、「失楽園」について思うわけですが、こっちは愛を貫いて…というか、欲望のままに走って、でも、結果、「死」が待っているわけです。そうなってくると、実は、「欲望貫いて死」と、「諦めて日常に戻る」はとても似ているような気がしたんです。

いや、一見、似てないです。まったく違うように見える。けれども、そこにあるのは、「両方はとれない」という思想ではないかと。つまり、あきらめて、日常に戻るひとには、「生」というご褒美があり、欲望に走ったひとには、「死」という罰が待っているのです。そのようにしか、とらえられないのは、おのれの偏向した見方ゆえだと指摘されればそうかもしれません。

けど、ここに、日本の倫理観の限界があるように思います。限界…というより、多くのひとの望む結末の基準です。どっちも多くのひとの賛辞を得ることができる結末なんだと思う。欲望に走って死ぬふたりを見て、かわいそうと思いつつも、ちょっといい気味と思い、諦めて帰るふたりを見て、悲しいと思いつつも、ほっとする…それが多くのひとの心情ではないかと。

もし、彼らが、欲望に走り、(愛を貫きという表現でもいいですが…)、それで、幸せになる…という物語であったら、多くのひとは、「あんまり好きじゃない」と仰るのではないか。そんなふうに思ってしまいました。

あと、日本人は、「がまんすること」「諦めること」「しのぶこと」にまだまだ美学を見いだしているのだなあと思いました。

それはなぜなんだろう……については、また、あらためて…。

ようやく、仕事がかたづいてきたので、ハッピーであります。明日は芝居見に行くし~♪。