山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

物語はその先から始まる。

久しぶりに、テレビドラマをちゃんと見ました。本日放送の山田太一氏脚本の「遠まわりの雨」(日本テレビ)。

主人公は、東京の大田区で小さな町工場を経営する男の妻、さくら(夏川結衣演じる)と、彼女の20年前の恋人で、現在は、前橋の大型家具店で主任を務める男、草平(渡辺謙演じる)のふたり。さくらの夫(岸谷五朗)が、海外からの大きな発注仕事を目前にして、脳卒中で倒れるところから物語りは始まる。

なんとしても、この発注をやりとげたいさくらは、前橋に住む、草平に会いに行く。草平は、2年前から工場の現場を離れ、慣れない接客業に苦労していた。結局、草平はさくらの願いを聞き入れ、上京し、工場の仕事を手伝う。これがただの仕事なら、それまでだろうけれども、久しぶりに会った二人は密かに惹かれあう。

草平のほうは、娘がぐれてて、妻ともあまりうまくいってないし、仕事にもうんざりしている。逃げ出したくなる気持ちもわかる。夫が倒れてしまったさくらは、なにかと草平を頼りにする。この草平という男が、渡辺謙が演じているので、とても魅力的だったりするわけだ。一徹で、すがすがしく、誠実な感じ。職人として、いい腕を持ちながら、それを活かせずにいるジレンマ、時代に取り残される男の悲哀を全身で、かっこよく演じている。さくらの誘いをギリギリで我慢して断るのも、魅力のひとつ。

で、物語は、ふたりが惹かれあいながらも、一線を越えられずにいる状態を描きつつ、海外からの受注仕事がうまくいくのか…という部分でもひっぱりながら進む。(映画じゃないから、結末を書いてしまうけれども)、結局、仕事は、工場の若者の活躍によって、成功し、草平は居場所がなくなり、前橋に戻る。ふたりは何度も結ばれるチャンスがありながら、最後まで、そうならずに終わる。

さくらの夫は脳卒中で倒れ、半身不随でリハビリ中である。草平の妻はさくらとの仲を疑い、家事放棄して、娘をおいて、買い物に走ったりしている。娘もグレる直前であり、草平とさくらは、不倫するにはあまりに、お互いの背負うものが多すぎたのだ。

しかし、ふたりにはもう一度チャンスが訪れる。草平の仕事のギャラをさくらが支払うことになり、草平は上京する。普通に工場で会えばいいものを、ふたりは、密かに鎌倉へ行くのだ。そこで、大仏を見たり、海岸に行ったりする。お互い惹かれあっていながら、決して一線は越えない。いよいよ帰る時間になり、二人は、極楽寺の駅で抱き合う。「今だけ」「電車が来るまで」と約束して…。

電車が来るまでのつかの間の時間だけ、「恋をする」というのだ。美しい物語だ。そして、電車は無惨にもやってきて、二人の時間は終わる。さくらは逃げるように電車に乗り、草平は、追いかけるけれど、ドアは閉まり、電車は出て行く。こうして、ふたりの時間は終わった。

美しい物語だった。だったと思う。まさに悲恋。

けどさ。

いや、テレビドラマとはこういうものだと思う。けど、私はここから先こそが書きたい。…というより、なんで、二人は結ばれないのか…と言いたい。ここで結ばれちゃうところから、やっと物語が始まると思う。

夫が半身不随なのに、彼の元・友人とつきあう。妻に疑われ、娘はグレかけ、仕事もあまりうまくいってないのに、昔の女と復活する。このどうしようもなさの先こそを見たいと思うし、そこを描きたいと思う。

ここでなにもせずに、悲しく別れるのって、一見、キレイだけど、「本当?」と思う。このあと、二人は、「そこそこの生活」に戻っていき、なにもなかったようにして暮らす。時々、「あのとき、つきあっていたら、どうなっていただろうか」なんて、夕焼けの時間に思い出して、うっとりする。…それって本当に美しいのか。

「マジソン郡の橋」って小説もそんなような話で、その思い出を死ぬまで心に秘めて、死んだあと、自分の遺灰を好きなひととの思い出の地に蒔いて…というものだった。このストーリーもあまり好きじゃなかったけど、このように、「秘めたる恋」っていうのがどうも。

もし、さくらと草平が一線を越えてしまったら、どうなっただろうか。鎌倉で会って、そのあと、どっかのホテルに行って、そういう関係になる。最初はすごく盛り上がるだろう。でも、お互い、すぐに離婚するってわけにはいかないから、いわゆるダブル不倫状態のつきあいが始まる。月に一度か二度、どこかでひっそり会う関係が始まる。東京と前橋だから、会うためには、時間もお金もかかる。それでも、はじめのうちは、「このために生きてるんだわ」と思うくらい、その逢瀬が大切に思えるだろう。

問題はそのあとだ。数ヶ月が過ぎれば、お互い疲れてくる。ヒミツの関係を続けるのは、誠実な人間であれば、苦痛だからだ。それを単なる情事と割り切ってしまえるなら、話はそこで終わる。そういう人間は物語の主人公たり得ない。語るべき内面と魅力がないからだ。(少なくとも自分にとって)。

半身不随の夫への罪悪感、弱い妻への罪悪感にさいなまれながらも、会うことをやめられない二人。いずれ、結論を出さないといけない時がくるはずだ。半身不随の夫を棄てるのか?まだ、中学生の娘もいるのに、離婚するのか?そういういろんな問題を乗り越えても、一緒にいないといけないのか?

その葛藤こそが、自分は知りたいところだった。半身不随の夫を殺してしまえば、サスペンスになってしまうけど、普通のひとは殺人などしない。ギリギリの日々のなかで、自分を責めながらも、関係を続けていくのだ。それは美しくないのか?きっと美しくは映らないのだろう。どろどろに見える。

けど、極楽寺の駅で、一度抱き合いながらも別れていくのは、そんなに美しいのだろうか。というか、そもそも、恋は美しい必要があるのか…。

…と、久しぶりに、恋について、考えてしまった。中年になり、いろんなものを背負っているから、恋は簡単にはいかないのだ…というのがテーマだと思う。けどさ、中年だろうと若者だろうと、実は同じなんじゃないか。背負っているものがあるかないかなんて、結局は言い訳にすぎないように思う。

二人で逃げなかったのは、答えは簡単だ。

「それほどの恋ではなかった」

諦めきれるくらいのものだったのだよ。お互い、それほど、お互いを必要としていなかったのだ。それを悲恋という言葉に包むのはいやだ。

…自分は激しく、間違っているのだろうか。

けど、私なら、極楽寺からどっかへ行ってしまう。半身不随の夫をおいて。いずれ、その報いを受ける覚悟でね…。(とほほ)。