山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

映画「ぼくのエリ 200歳の少女」

一週間くらい前に見たけど、感想を書くチャンスがなくて、今日になってしまった。

今日は、昼間、DVDで「サイタマのラッパー」を見たけど、見た順番に感想を書くことしますので、今日は、「僕のエリ…」について。自分のメモのつもりで…。

えっと、「ぼくのエリ」は、いわゆる吸血鬼のお話です。自分、ホラーは苦手なので、進んで見にいくことはあまりないのですが、この映画をほめる方が多かったので、ゆきました。

メールで、遠くNYのミドリさまからのおすすめされました。ありがとうございます、です。

舞台はスウェーデンです。ストックホルム郊外の町に、吸血鬼の少女エリと彼女を守るおじさんが引っ越してきます。同じアパートには、学校でいじめられている少年が住んでいます。人間とは別の習性を持つが故に孤独な吸血鬼エリといじめられっ子の少年は、心を通わせることになる…というお話です。

吸血鬼映画をあまり見たことないので、わかりませんが、この映画はとてもリアル。吸血鬼を妖怪とかお化けとかそっちの方向で描くのではなく、人間と習慣のちがう、別の生き物として描いています。

エリは、ひとの血を吸わないと生きていけない、という部分を除いては、人間とそれほど変わらない。いや、素足でビルの壁を登ったり、薄着でも北欧の寒さに耐えられるなど、「食べ物」以外にも、人間との差はあることはある。

けれど、知性、のようなものもあり、愛情も優しさもあるんですねー。

吸血鬼ものにありがちな、悲鳴とか大げさな血しぶきとかはなく、全シーンとてもリアルで静かな映画でした。

自分には、とても古典的な作品に思えました。いわゆる、異形のものに恋するお話。日本の民話などにもよくあるような…。かたちは違うけど、夕鶴とか。

自分とは住む世界も生き方も違うけれども、恋をしてしまう…という構造の物語って、割と定番。その場合、男子→女子って形が多いように思う。映画にもなった「赤目四十八滝心中未遂」も、同じカテゴリーに入るんじゃないかしら。

身分違いの恋って悲恋になるから、物語のテーマになりやすいのだと思う。今は、「身分」というものがなくなったことになっているので、外国人だったり、人間以外のものだったりに変形させ、同じテーマを託しているように思う。

あるいは、難病もののように、「不治の病にかかったひと」という形で、ふたりの愛を阻むものを持ってくるとか。恋は、邪魔ものがいたほうが盛り上がるから。

横道にそれました。「ぼくのエリ…」。

エリの吸血鬼ぶりは、まるで野性の動物のようです。狼に恋をするようなものかなあーと思いました。ライオンとかヒョウとか。

ふたりが惹かれ合うのは、お互いひりひりするような孤独の世界に住んでおり、その部分で共感したようです。痛い部分に手を伸ばし合うような恋というのもある。

エリは、新しい形の吸血鬼像なのかな。人間に恨みも憎しみもなく、ただ、血を吸わないと生きられないだけ。人間だって、牛や豚が憎くて食べているわけじゃないのと同じってことでした。牛や豚の世界から見たら、人間は、自分たちをじゃんじゃか殺す、血も涙もないひとたちってことになるけど、食べている方は悪気はないわけで…。

そういうことを気づかせてくれる映画でした。っていうか、自分にとってはそう感じました。

しかし、もし、吸血鬼が、その食性だけが危険なのであるなら、解決の道はあるのではないか…と思ったりしました。つまり、献血のような形で血をわけてもらったら、生き延びられるのではないか…とかね。そうしたら、吸血鬼とは平和的に共存できるのではないか…と。

それと、エリちゃんという吸血鬼は太陽の光がだめなんですね。光に当たると焼け焦げて死んじゃう。あと、吸血鬼に噛まれた人間も吸血鬼になる。ここらへんは、自分の記憶している「吸血鬼もの」の定番部分でした。

唯一、触れられてなかった重要な部分は、「十字架」を怖がらないこと。いや、怖がるのかもしれないけど、十字架については言及されていなかった。一般的な吸血鬼のお話では、十字架を恐れることになっているはず。そのことから考えても、吸血鬼というのは、キリスト教を背景にして生まれたお話なんじゃないかしら。(確認しておりませんが)。

けど、あえて十字架に触れていないというのは、この作品では、宗教性を排除したかったんだろうと推察します。元の話はキリスト教(=神)VS吸血鬼(=悪魔、あるいは、異教徒?)って構造で、キリストの勝利を描く側面もあると思う。

「ぼくのエリ」ではそこらへんは、割愛されているので、宗教について描こうとしたのではないのでしょう。

低予算らしいですが、緻密な演出で洗練された作品でありました。