山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

映画「ぼくのエリ 200歳の少女」続き

今日になって、この映画の構造について、また考えたので、つけたし。

というかですね、チャイコフスキーの「白鳥の湖」について、調べていて、気づいたのでした。

「白鳥の湖」も、異形のものとの恋だった。西欧のものでいうと、このほか、人魚姫などもある。どちらも、女が人間以外の生き物で、王子(たいてい、王子なんだな…人間のなかでも高貴なもの)が、人間でない女性に恋をするわけです。

結末ではたいていが、結ばれない。白鳥の湖は、王子と白鳥の恋ですが、ふたりは死んでから結ばれます。人魚姫は、人魚だけ死ぬ。悲恋であります。

日本では、かぐや姫がありますねー。月から来た姫。これも悲恋。王子は死なないけど、姫は月に帰ってしまいます。

かように、「人間ではない女」との恋は、神話、民話のなかに多く現れる。それって、なにを意味するのかなーと思いました。

たぶん、異教徒の女の象徴ではないかと…。異教徒とわかっても、恋する気持ちが抑えられない…ということではないかと。そして、結末が悲恋であるのは、どこかで、「異教徒と恋すると不幸になる。少なくとも、現世では結ばれないよ」という警告を秘めているのではないでしょうか。

なので、吸血鬼との恋も、広くはこのカテゴリーに入る。今や、宗教がちがっても、恋することは、それほど命懸けではないとは思うけれども、あえて、やる意味はなにかなーと思いました。

それに、昨日の日記でも書いたけど、「ぼくのエリ」では宗教色を消しているし…。

芸術ってたどっていくと、結局の所、宗教観に行き着くのだ…ということを本日は、「白鳥の湖」について勉強したので、面白かったです。

宗教色がうすれた現代のスウェーデンで、異形のものに恋するお話をリアルに描く意味ってなんだろう…と。そこはわからないでした。