山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

映画「人生、ここにあり」

2008年制作の実話を元にしたイタリア映画です。

精神病院が舞台…実話…イタリアで大ヒット…くらいの情報で見に行きました。

精神病院を舞台にしたものでは、「カッコーの巣の上で」が有名ですよね。

これは、精神病の患者を薬漬けにしていた病院に、ジャック・ニコルソン演じる男が入院してきたことから、病院側との戦いが始まり、患者たちが生きる意欲を取り戻していく作品でした。

で、こっちの「人生、ここにあり」もですね、構造はやや似ています。

ただ、「カッコー」が同じ精神病の患者(ジャックニコルソン)によって、変わっていくのに対して、こちらは、患者ではなく、「管理する側」の人間によって、変化していくスタイルです。

なので、構造としては、ヤンキー先生モノみたいな感じ…といっても、ヤンキー先生ものってちゃんと見たことないんですが、私の認識としては、

みんなからダメだといわれ、荒廃しきっている高校に、なにかの事情で、それまでとは変わったタイプの教師がやってきて、彼独特の指導方針により、生徒たちが立ち直っていく…というもの。

不良がラグビーをやって、厚生する…という認識です。

で、こちらの映画も構造は似ております。

1983年のミラノが舞台で、それまで労働組合で働いてきたネッロという、血気盛んな男が、左遷というか懲罰人事みたいな流れで、精神病院の管理者として配属される。

そこで、おとなしくしていればいいものを、「なんか、ちがう」「彼らにもできることがあるはずだ!」と気づき、患者たちに床を貼る仕事などをやらせます。

廃材を使った寄木作りの床が評判を呼び、患者でありながら、お金を稼ぐようになります。

ネッロがそれぞれの特長を生かして、適材適所で進めていくわけです。

すると、患者たちが生気を取り戻していく。仕事を得た喜びから、人生に希望を持つようになる。

しかし、いいことづくめでは終わらない。

生きがいや自由を手にした途端、社会との接触を持つわけですから、それまでの病院内のような安全地帯とは違ってくる。

いい面もあるけど、きつい面もでてくるわけです。

元々、社会の普通のきつさのなかで生きることが難しいから、「患者」として、病院にいたわけですから、社会の荒波はきついわけです。

その反動を受ける。

で、せっかくのネッロの計画は頓挫する。

この流れは、シナリオとしては王道ですよね。

精神病院にそれまでいなかったタイプのやつがやってくる。外界からの侵入者です。これによって、第一の波が起こる。

一瞬、その波は、それまでの平和を壊すように見える。が、次第にその波は患者たちによい影響を与えていく。患者たちはどんどん前向きになり、事業もうまくいき、すべてがハッピーに展開する。

が、しかし。

ここで事件がおきる。うまくいったからこその新しい問題を抱え込み、事件になるわけです。これが第二の波。

第二の波はあまりに大きいので、第一の波以前の状況より悪くなったりする。悪くなったように見える。

観客も、「あーあ」とがっかりする。

しかし、これで終わったら、王道の映画じゃありません。

主人公はトラブルにも負けず、「誰かの支援」によって復活するわけです。たいてい、それまで、助けてきた対象によって、助けられるこになります。この場合、患者たちですよね。

そして、復活。

その先はどうなるかわからないけど、希望に満ちて終わる…。

これぞ、王道の脚本の流れってもんです。シナリオの教科書に書いてあるとおりの展開です。

でも。

これって実話なんですよね。

もちろん、実話を映画仕立てにしているんだと思いますが。

そして、この病院(病院じゃなくて施設?)のやり方が効を奏したおかげで、その後、イタリアでは、精神病の患者たちが自立するための組織がいくつもできたそうです。

あっぱれな話でした。

ということで、とてもよくできたシナリオでした。

でも、たとえば、一日前の日記に書いた「未来を生きる君たちへ」と比べて、どっちが好きか?と問われたら、前者です。

なぜなんだろう…って自分に問いかけました。

それでわかりました。

「未来を生きる君たちへ」には、「悪意」もしくは、「悪者」が存在するんですね。

主人公の難民キャンプで働く医師はもちろん、立派な男なんだけど、浮気した過去があったり、激情して、暴力を黙認したりする「弱さ」があるんです。

ゆらいでるんです。

同じく、母を亡くし、凶暴になっている少年も、いじめられっこを助ける正義感がある一方で、その復讐に過剰な熱意を燃やしたりします。

明らかに、「悪意」に掬い取られる瞬間があるんです。

私は、このような、人間の弱さや、がんばってもこぼれ出てしまう、「ダメさ加減」や、誰もが心のなかに内包するであろう「悪意」に反応してしまいます。

悪意があるほうに感動します。

たとえば、「僕のエリ、200歳の少女」やそのリメイク版「モールス」にしても、「よくできているなー」と思っても、心底大ファンになれないのは、主人公たちに悪意が見えないからです。

元々もって生まれた素性(吸血鬼という運命)や、いじめられっこという相手から一方的に決められた役割によって、「ひどい環境」にいるのですが、彼らのなかに、「悪」はない。

悪は全部、自分の「外」にあるんです。

だって、吸血鬼に生まれたのは、自分のせいじゃないでしょ?

いじめられるのも、自分のせいじゃない。

物語は、「自分たち」VS「外部の悪」という構造をとる。

外部の悪にどう対処するか…を見ていくことになります。

数多くの純愛もの、難病モノなどもこの構造を持っています。

悪はすべて、外部にあり。(つまり、難病も外部の悪です。もちろん、病気は自分の内部で起こることですが、自分のせいではない…)

だから、主人公たちは、いつまでも清く正しい。

そういうのに、どうも乗り切れないんです、自分は。

悪というのをすでに内包してしまっている、人間の悲しさを描いたもののほうが好きです。

つまるところ、自分のなかの「悪」を否定できないからなんですね。

…ということで、このイタリア映画、秀作でございますが、自分にはちょっとストレートすぎました。

追伸

今日は、ついに、「ミツバチの羽音と地球の回転」を見てきました。

この感想はまた明日以降で。