3月の原発事故により、さらに注目を集めていたドキュメンタリー映画「ミツバチの羽音と地球の回転」をやっと見ました。
実は地震の起こる数週間前、友人のカメラマンからこの映画については聞いていた。とてもよくできた作品だと。
見たほうがいいよと勧められていたのだった。
当時、私はハイビジョンのカメラを買って、自分であるテーマを撮る計画を立てていて、そのためにはどんなカメラがいいかを彼に相談していた。
自分で撮影し、パソコンで編集して作る方法でやってみようと決意したところだった。
その数日後に、地震が起こって、計画は頓挫したのだけれども。
そんなわけで、ぜひ見ようと思っていたが機会を逃していた。それと、福島の原発問題もあったから、なおさら見たくなったのだ。
あまりドキュメンタリー映画を熱心に見てきたわけではないけど、今年はなんだかよく見るようになった。
大きな事故が起こると、事実の強さに圧倒されるのかもしれない。
「ミツバチの羽音と地球の回転」は、瀬戸内海にある祝島という小さな島のひとたちが、海をはさんだ対岸に計画されている原子力発電所の建設に反対している様子をメインに撮ったものだ。
見る前の印象では、もっと原発反対が全面に出ているやや政治的なものを想像していた。あるいは、原発の恐ろしさを訴えるものを…。
でも、まったくちがっていた。
というより、私は原発問題のドキュメンタリーをあまり見たことがないので、同じ監督の別の作品はもっと違うのかもしれない。
「ミツバチ…」は、原発の恐ろしさを語る…というより、今ある自然の美しさを語る作品だった。
それがとてもすばらしい。
誰が悪い!といって、責めるのではなくて、「こんなに美しいものを壊さないでほしい」…という見せ方…あるいは、、「壊さないで…」と大声で叫ぶというより、ひたすら、失われる可能性のあるものたちを映していく。
とにかく、祝島の海、畑、動物たち、そして人々が美しい。
それがなにより一番。
そんなにも美しいものが、今、無残に否定されようとしているんだ…と思うと、非常に危機感を持った。
そして、「よく撮ったなあ」ということ。
数年かけて、島の人々の懐に入り、客観的でありながらも、よりそうような視線でカメラが動いていく。
ドキュメンタリー映画にはちょっと偏見があって、「長い、暗い、つまらない」と思っていたけど、それは昔昔の話だなあ。
あんまり「社会派」「悪を糾弾する」姿勢だと、見るのがつらくなるのだけど、最近は、事実とテーマを淡々と撮りながらも、しっかりメッセージは伝わるような作品が増えたと思う。
なにが悪でなにが善かも決めにくい時代であるしね。
…ということで、この作品を見ていると、日本の発展とか効率とかそういうことなど関係なしに、ひたすら、「こんな島を壊さないでほしい。そっとしておいてあげてほしい」という気持ちになった。
そして、そんなことをできる権利がいったい、誰にあるんだろう…と思った。
なぜ、ひとつの場所が、必ずしも誰かのものだなんていえるんだろう。
確かに、そこは日本なのだろうけど、そんなのあとから決めたことだよね。島も海も魚も、本当は誰のものでもないのにね。
そんなことを感じつつ、ドキュメンタリーを撮る覚悟について考えてしまいました。