今日は犬のことでも、小説のことでもない、よしなしごとを書く…。
今作っている、映画「犬のしあわせ」(仮)の内容のことで、元・構成作家で現在は、ドキュメンタリーのディレクターでもある友人と会った。
この映画は自社制作(スモールホープベイプロダクション制作)なので、プロデューサーも私なら、監督も私であり、ある意味、自由自在というか、自分が撮りたいと思ったモノ、興味のあるものをどんどん追いかけていくことができる。
5月から撮り始めたけれど、取材していく中で、知ったこと、知りあった人、などをそのまま、追跡するように撮影している。
それはとても楽しくて、ストレートな興味のままに現場に行けて、カメラを回せるってことは、ほんと至上の幸せだった。
ドキュメンタリーの至上ここにあり、という感じ。
これまで、本当にたくさんのテレビ番組を作って来たけど、もちろん、自分の思いや狙いがあって、それに基づいて作るけど、その前に、番組の枠組みの方向性やら、プロデューサーの意向などがあって、「好き勝手」というわけにはいかなかった。
ある程度の修正を加えながら、作って行く。いろんな人の知恵が入るし、客観的意見も入るので、結果的にはよきものに仕上がるのは事実。
そのおかげもあって、今日に至るまで、いろいろなお仕事をいただけるようになっているわけだ。
好き勝手撮り散らかして、pの意向に反対したり、闘ったりばかりだと、そうそう、仕事としては立ちゆかなくなっていかたもしれない。
(とはいえ、結構、いつも闘うし、へとへとになるけどね…)
でまあ、結局のところ、宮仕えの演出に飽き足らなくなると、なんか始めてしまうというのは、考えてみたらいつものことであった。
95年に初めて小説を書いたのも、自由を求めてだったからね。
(今は依頼された小説も書くようになったけれども…笑)。
そして今回は、ドキュメンタリー映画でそれをしようとしている。小説は無料で書けるけど、映像作品はそれなりにお金がかかるところが痛いところではある。
あ、前置きが長くなった。
とにかく、今は、思いのままに犬をテーマに作っている。
すると、さすがに「テーマ広げ過ぎ?」「取材先多すぎ?」という気持ちにもなり、ここはひとつ、構成の相談をしようと、前述の女子に来てもらったのだ。
彼女は、私と同じ歳で、やはり、大の犬好き、動物好きである。タンザニアでは、「ママ」の称号を持つほ
ど、野生動物にも詳しく、実際活動もしている。
そんな彼女と、この映画について、3時間くらい話した。
彼女は言った。「告発系の映画は好きじゃない」
犬や猫がこんなに殺されている!ひどいです!ってことをひたすら訴えるという手法もあるけど、やっぱり、希望を見たい。
物事のいい面を描きたい。少なくとも自分はそう思って、この仕事をしている、と。
これについては、ゆるぎないようだった。
(私より、ずっと善良なひとなのだ)。
自分も、告発だけして終わる作品にするつもりはなく、「希望」「突破口」「未来」を描いていかなくては…って思ってた。
そこらへんの気持ちが整理できてよかった。
犬や猫がたくさん殺されているのは事実。でも、減っている。減らすことに成功しているひとたちがいる。これも事実なんだよね。
実は今日もロケだったんだけど、動物を救うというのは、語ってみると、大事のように見えるけど、実際の活動というのは地味なものだ。
安心できる寝床と新鮮な水とご飯を与えること、散歩したり、遊んだりしてあげること。
その繰り返し。それさえできたら、むやみに殺さなくてすむ。
でも、この「地味で簡単なこと」ができずに、犬を捨てたり、センターに持ち込みしたりするひとがいるのだ。
地味で簡単だけど、ずっと続けないといけないことだからね。
毎日、毎日、ご飯も水もトイレ掃除も必要だ。
そういう地味な繰り返しを淡々とやった先に、「殺されない未来」があるんだよね。それはものすごく、立派なことなんだよね、ってあらためて思った。
福島で原発事故が起こり、20キロ圏内に取り残された動物がたくさんいた。彼らを救うことも大事だけど、その一見、派手な活動ばかりに目を奪われていたら、いけないよね。
そんなことを思いつつ、動物愛護センターから引き出した犬の世話をする人の姿を見ていた。
ここのところ、私生活の面で、ちょっとダメージを受けているのだけど、そのダメージに飲み込まれないように、あらためて、「物事のいい面」を見てみようと思った。
ロケから帰って、自分の犬たちの様子を見ると、ホントにほろりと来るんだ。
あ、結局、犬の話になってしまった。