夕日を見つめて、反省するわたし。犬は道連れ。
恋愛とはなにかについて、前半生をかけて考え、実行してきたけれど、私のたどり着いた結論は、要するに、お互いの持っている、どうしようもなさの加減が同じ者同士がくっつきあう、慰めの行為ということである。若い頃は、これはもう、性欲以外のなにものでもないと思っている。今だから、なおさらはっきり言える。そして、性欲に従って生きるのは全然悪いことではなくて、むしろ自然で素直なことなのだ。なんでいったい、性欲に従って生きることを、罪悪感植え付ける文化がはやってしまったのかしら。結果、少子化になっているんだぞ。奇妙な結婚制度なんてもうけるから、良識あるひとは、おそろしくて結婚などできないのだ。一生に一人だけを思い続けるなんて大ウソを、神の前でも市役所の戸籍係の前でも決して誓いたくないもの。そんなはしたないまね、私はできない。(2度と)
だいたい、純愛などというのは、手の込んだフェティシズムに過ぎない。(若い頃から嫌いな言葉、『純愛」だったけど、年を経るごとにますます嫌いになってきた、気持ち悪いんだよ)と、さんざん、ぶちかましていて、そんな私でも恋はするのだった。ということにしておこう。
運命のいたずらか、よく考えると、映画好き、という共通の趣味があり、自由業という時間の余裕があり、ベネチアグラプリだと一応見てしまうという業がある二人なので、それはすでに運命とは言わないかもしれない。確率の問題だ。
そして、私はかつてちょっといいなと思っていたひとに再会したのだった。前に知り合いだったとき、私はどうしようもない問題を抱えていて、その抱えているものがあまりにどぎつかったので、普通に暮らしているひとからはすでに相手にされなくなっていたのであった。
(というと大げさだけど、要するに当時、関わっていた人が、特殊な事情にあり、特殊な施設を出たり入ったり、刃物沙汰を起こしたり、忙しかったわけである)
そんなどうしようもない時期にとても心根の美しい(ついでに外見も美しい、私から見て)人と知り合ったのだった。当時、そのひとにも連れ合いがいたし、しかし、彼のところはまっとうな家庭生活を営んでいたので、私の暮らしを嵐とすると、彼の家は凪ぎだったので、どうにも均衡がとれなかったのである。
ここで、この文章の前半にもどるけど、ようするに二人の抱えている問題の深度がちがっていたわけ。かつては身分違いの恋は成立しにくく、成立させようとすると大問題になって、ドラマや小説のかっこうのネタになったけれど、身分も環境も、業の深さも、お互いにつり合っている方が、恋愛は始まりやすいのだと思う。
残酷に時間は過ぎて、私の関わっていた面倒の元凶の人は去り、私の身体には、中性脂肪が舞い降り、皮膚にしわが刻まれたのだった。そして、彼は振り返ったのだ。まるで時間をさかのぼるが如く。(この比喩はださい)
ここで小説なら、彼はこんなふうに言う。
「また、会えたね」とか。
あるいは、まるで二人の間には時間が流れなかったのように
「変わってないね」といって、微笑むのだ。
(『変わってない」がほめ言葉になるのは年くった証拠)
が、現実は違う。現実はもっときつくてつまらなくて、クールなのだ。
そのひとは振り向いたにもかかわらず、また、スクリーンの方を向いてしまった。なんとなく、首を動かしたかっただけなのか。2時間近くスクリーンを見てたら、首も痛くなる、生理現象か。
ここで気持ちがくじける。もともと気が弱く、度胸がなく、慎重で臆病で控えめなので、そのまま消え入るように帰ることを考える。やっぱり、運命だったんだわ。味方してくれない運命。くだらないことを、思いきり冷たい映画のエンディングを見ながら考えていると、そのひとはもう一度振り向いた。
そうこなくっちゃ。そして、私はそのひとの懐かしい声が私の名前を呼ぶのを聞いたのだった。それは、ここ数カ月で聞いたどんな音楽よりも美しい響きだった。と、小説なら書くけど、一番美しい響きだったのは、正直、「本ができました」の報告の声だったので、ちょっとウソ。
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そして次のシーンはすでに翌朝だ。諸事情あるので、詳細飛ばして、朝。隣には、そのひとが。
聞けば、リコンした~という。この世で一番好きな言葉だ、リコン。
で、以下、次号にさせてください。