山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

白金愛人通り

今日はひさしぶりに白金台へ行って、「利庵」という店でそばを食べた。
そばの味はあまりわかんないけど、ここは美味しいと言われている。
白金には、もうひとつ、「三合庵」というそばやがあって、ここもそば通には有名。いつも混んでるけど。

って、そばのことは関係ない。ひさしぶりに「白金愛人通り」を歩いたので、その話。
なんでそう呼ばれているかと言えば、ずばり、白金は愛人の街だからだ。ほんの数年前までは地下鉄がなかったせいで、バスしかなく、不便なため、愛人を囲うのに便利だった。(だって人目にふれないですむでしょう)

それに愛人にはだいたい二通りあって、ひとつが愛人専任のひと(つまり、なんのお仕事もしないで、昼間からエステ行ったりしてる)と、一応お仕事持っているひとがいて、
その職種は、銀座のホステスかこの近所の住宅街でのブティックか小料理屋経営と決まっている。(決まってないけど)すると白金からは職場までタクシーで近いので便利なんでした。ハイ。

以前、これらのことをタクシーの中で、友達に説明していたら、タクシーの運転手さんが
「へえ、お客さん、ここ、愛人通りっていうんだ」
と興味深そうに聞いてきた。
「でも、通称だから覚えてもしようがないですよ」と一応伝えると
「じゃあ、この辺、歩いているひと、みんな、愛人なんですか?」
などと無謀なことを言う。
「さあ、それはわかんなけど」と返す。
彼は、「どこで見られますかね、本物の愛人」といたって熱心だ。
どこで見られますか、って愛人は別にパンダじゃないんだから。
「そこらのセブンイレブンなどに深夜とか夕方とかに来てますよ」と適当なことを言っておいた。
「次の休憩に行ってみようっと」とそのドライバーはなぜかウキウキしていた。

けれども、そのドライバーがほんとの愛人を発見できたかどうかは怪しい。
というのは、「愛人」という言葉で喚起されるイメージをもった愛人はそうそういないからだ。
ここらあたりの愛人は年代ものが多く、ちょっと見では素人には見抜けまい。
(と威張るほどのことでもない)
まず、10代、20代の愛人は愛人ではない。それらはせいぜい援助交際だ。愛人たるもの、「パパ」と10年単位でつきあい、お家を買ってもらい、あまりの長い付き合いにちょっと見には夫婦に見えるくらいでないといけない。
が、しかし、そこには決して夫婦では見られない、ミョ~な空気がある。まず、女性の肌に注目してほしい。愛人たちは決して日焼けしない。(もちろん、ゴルフ好きという例外はあるが)たいていが昼間は寝ていたり、せいぜい、美容院にでかけるくらいなので、日光照射量が少ない。一日二日の差ではなく、何十年に渡って陽をあびていないので、その肌は妙に艶かしく白いのだ。
ここで、70代の愛人と本妻の話をしたいと思う。二人とも白金近くの高級マンションに住んでいる姉妹である。姉は生涯、愛人人生、妹はある企業の社長の本妻であるが、夫が愛人の家に行ってしまったので、生涯、家で待つ身であった。このふたりの差をだれが見抜くことができようか。
本妻は、彼女の暮らすマンションでは「あのひとは愛人だ」と言われていた。なぜなら、夫が月に数回しか帰ってこないので、「帰ってくる」のではなく、「通ってくる」と思われていたからだ。
一方、愛人の姉のほうにも、月に数回、男が通ってくる。彼女がマンションの他の住人からなんと見られていたかは知らないけど、年季が入ってくるほど、見抜くのはむずかしい。どちらもどこか薄幸の影がある。いつも不機嫌。金遣いが荒い。先が見えないという点では共通している。
とにかく、このような女性たちが昔から白金近辺には住んでいたのだった。
(高輪/広尾にも生息)つまり、本妻と愛人は意外と近所にいるのだった。

そんなわけで、誰かが名付けた白金愛人通り。
地下鉄が通るようになって、最近は、東急ストアもできちゃって、女性誌が白金を持ち上げるもんだから、観光客も増えたりして、最近、愛人たちもめったに外に出なくなった。(うそ)
それに生涯愛人、絶対離婚しない本妻、も減りつつあるのではないだろうか。
一部の男性にとっては、都合のよいシステムであったけれど、もう、どちらの立場であっても「待つ」ばかりの人生は楽しいものではない。
白金/高輪近辺はお寺も多い。昼間からのびる線香の煙を見ながら、愛人のゆくすえについて考えるのであった。
ps
しつこいけど私は愛人ではないっす。
(愛人とは金銭的援助を受けているひととここでは定義しております)