山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

恋する日曜日


今日も一日、家にいられる。うれしい。ので、ちょっと歩いて、ヴェローナドーナッツを買って帰ってくる。ミニ(子供の方の犬)が横目で見ているけど、あげないでお茶。

関係ないけど、新聞を読んでいたら、保坂和志さんの「小説の自由」が三省堂でベストセラーにランクインしていた。うわ。私も最近読んだばかりだったけど、この本は決してベストセラーになるような本じゃない。

自分は小説も書くし、かなり意識して小説も読むから、こういう本が好きだし、保坂和志さんは尊敬する小説家だけど、ふつうのベストセラー読者にとってはどうなんだろう。最後まで読み通せるのかって心配になる。

なんでこの本がこんなに売れたかは予想がつく。それは、糸井重里さんの「ほぼ日」で保坂さんのインタビューが連載されているからだろう。その連載は、インタビューだから読み易いし、おっしゃっていることもずしんと心に響くようなことだから、多くのひとが関心をもつのは当然だと思う。

けれども、保坂さんが繰り返しこの本のなかで言っているのが、『日常や新聞やワイドショーのレベルで考えられている人間や世界のイメージと別のイメージを作り出すことが小説の真骨頂であると私は考えるから、「読む」「書く」だけでなく、「考える」という抽象的な時間を多く持つ必要がある』に代表されるような、「思っていたことをゆるがす」のが小説なのだ、ってことで、それってあまたのベストセラー小説の真逆ではないかと。

(よく売れる小説って「やっぱり○○だよね」って思わせるものが多いでしょ。○○には、愛でも友情でも家族でも好きなものをいれれば、成立するわけだけど、それは読む前も読んだ後もなんの変化もないってことだよね。)

保坂さん自身も「小説の自由」のなかで、ベストセラー小説について批判的なことを書いているが、一方で、この本そのものが売れてしまうという現象がおもしろい。
だって、たとえば、
『解釈して何らかの形に収まってしまうようなものは、「何か」ではなくて「ただそれだけ」のものなのだが、どう解釈してみても解釈がとうてい対象(=作品)の豊かさ複雑さに見合わず、それゆえ次々と別の解釈への誘惑を起こし、解釈してもしつくせないために全体の展望が得られないものが「何か」ということで、それが何なのかを知る能力は誰にも与えられていない。ひとことで言えば、それは何かではあるがそれが何なのかは知りえない、ということだ。これは小説そのものだ』

う~しびれる。けど、こういう話をそんなにたくさんのひとが望んでいるのかと。

私はずっとテレビをやってきて、視聴率という数字に晒されてきて思う。テレビのが厳しい。なぜなら、視聴率は分刻みででて、宣伝や出演者や前評判でどんなに客にチャンネルを合わせることができても、ちょっとでもつまらないと、どんどん他へ流れて行ってしまうからだ。

そこいくと、本や映画は、いったん売れてしまえば、最後まで読まなくても、ちゃんと映画を見ていなくても、カウントされてしまう。一は一だ。だから、宣伝がうまくいくと、思ってもみないものも売れてしまうのではないかしら。例え、読まれなくても。

けれども、これからは小説も携帯配信などで読まれるようになると、最初だけ読んでつまらなかったら、途中から買わないという買い方をされるようになるだろう。そうすると、いくら宣伝しても、途中までしか買わないひとが出てくるだろう。それは、分刻みの視聴率が平均されて最後の数字になるように、小説にとっては厳しい時代が来るのだと思う。

もちろん、「小説の自由」みたいな本がたくさんのひとに読まれて、そうか、小説ってこういうもんだったんだ、ってことが広く理解されたほうがいいと思うけど、そんなこと、どうもあり得ないように思う。

もし、これをテレビ番組でやったら、最初は前評判で客を集めることができたとしても、アウグスティヌスの「告白」に関する記述に来た頃には、(「小説の自由」の後半は主にこれがテーマ)ほとんどのひとが他へ行くか、テレビを消すか、居眠りを始めていると思う。だから、テレビ屋はめったなことでは文学に手を出さない。

そんなことを考えたり、ドーナッツを食べたり、メインの書き物をしたりで日曜日が終わる。恋する日曜日の恋の相手は、もちろん、犬とドーナッツと小説でした。

最後にもうひとこと。
けど、「小説の自由」は面白かった。生きる勇気が湧いた。最後まで読んではじめて、アウグスティヌスの「告白」とこの本そのものがひどく似通っていることに気づいた。そうだったのか、そういう仕掛けか。という意味では、推理小説並に面白いよん。