山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

月はひとつ。

世界では、日食(日蝕?)が起こったり、大洪水が起こったりしていたようだが、自分は風邪にやられて、今日も一日伏せっていた。

午後には、やらないといけないテレビの台本がひとつあったので、のろのろと起きだして、直す。風邪薬のせいか、熱のせいか、もっと根本的な問題…能力のせいか、あんまり進まない。送ろうと思っていた時間を30分ほど過ぎてしまった。申し訳ない。しかも、会議に出ることを免除してもらった。とてもじゃないけど、シャワーを浴びて、髪を洗って、まともな服を着て、外に出て、会議をするだけの体力がなかったのだ。

で、今日は、「1Q84」の下巻を読んだ。ううむ。世界の村上大先生に向かって、出版界を揺るがす大ベストセラーに向かって、虫けらのような私がなにをいっても「負け犬の遠吠え」に聞こえるだろうし、他人様の作品を批判できるほどの我でなし…ということで、なにも言わないでおこう。上巻を読んでいるときは、果たして、この物語をどう収束させるのだろうかという作り手側の興味もあったけど、下巻になって、それが次々と明らかにされていくと、いろいろ苦しかった。風邪で熱があって、苦しいからかもしれないけど。

物語に登場する、新興宗教の教団とか、作られた17歳のベストセラー「美少女」作家とか、実はそれらは、記号にすら過ぎないのだな。そこらへんのことをもっと深く、もっと鋭く書き込んであるのかと思ったのだが。

けれども、小説を書くっていったい、なんざんしょ…とはずっと思った。村上先生はどこまでいっても、これだけは間違いなく、読ませる文章なので、気持ちよく読んでしまう。小説って、独自の気持ちいい文章の連なりなのかもしれないな、と思ったり。物語はもはや、だいたい書かれちゃっているから、どんな落ちが来てもそんなに驚かないもんね。だとしたら、小説を読む楽しさって、文章を読む楽しさかもしれないな。

たくさんのひとがブログを書くようになって、自分もいろんなひとのブログを読むようになった。すると、読ませる文章とそうじゃないものがあるってことが明らかになる。これまでは、本になったり、印刷物になったりと、ある程度の「ふるい」にかけらた文章しか読んでこなかったので、(作文の先生ではないので)、なんの手も入れられていない、びっくりするような文章に出会うことも多々ある。何が書いてあるかじゃなくて、単純に、文章としてつまんないものがある。それは苦痛だ。

なので、気持ちのいい文章を紡ぎ出すってことはそれだけで、偉大なる才能なんだろなあ。村上先生の小説は、(やりすぎの比喩も多いと思うけど)、やはり、すいすいと気持ちよく読ませるものなあ。

そんなわけで、とりあえず読み終わり、風邪もなんだか一段落したような気がして、あらためて思うことは、自分もやっぱし、小説、書こうってことでした。

自分はまったく、すみっこの作家なので、事態はそれほど楽観できるものではないけど、それでも、やっぱし、書きたいのう…と思ったのだ。「1Q84」に出てくる、孤独な10歳の女の子の姿は結構目に焼き付いた。最近、ずっと考えていること、非常に孤独な少女時代を送ったゆえに、そのカラを今も静かにまとっているひとについてだ。エヴァでいうところのATフィールドだ。あれ、「1Q84」にもATフィールドみたいな比喩があったと思うけど、なんだっけ。思い出せない。

小説を読んでいる間は、蒸し暑い布団のなかを抜けて、月が二つある別の世界にいることができた。そこでは、今、自分が抱えているいろんな問題……ヒミツ…を忘れることができたし、月が一つの世界に戻ると、自分が抱えている問題が大したことではないように思えてきたし、自分は、小学校のときにたった一度手を握っただけの相手しか愛することのできないほど、愛に貧しくはないように思えて、今ある愛あるひとびとに深く感謝するのだった。

…あれ、なんの話だっけ。夜になって、少し回復したように思う。