山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

ケータイ小説など。

今日は外に出て、少しだけお酒を飲んだので、浮かれている。

昔昔は、たくさんたくさん飲んで、いろいろ浮かれて楽しかったけど、今はもう、身体的に飲めなくなってしまったので、悲しいけど、しかたないね。でも、今夜は楽しかった。(美形ピアニストの稲本響氏とその幼なじみの女子と代理店の方と会食いたしました。プロの音楽家である稲本氏から拙著「しまうたGTS」面白かったと言われて、うれしかったです。)

ところで、先日、ETV特集でやった「ケイタイ小説」の話をVTRで見た。作家・写真家の藤原新也氏が、携帯小説家を訪ね歩き、なぜ、携帯小説がベストセラーになったかに迫るドキュメント番組である。オンエアはだいぶ前らしいけど、先日深夜に家に遊びに来た後輩が「面白かった」と言っていたので、「見てえ!」と叫んでいたら、後輩のひとが、録画したビデオを送ってくれた。(ありがと、Kさん)。

で、鑑賞。売れた携帯小説のほとんどが実話というのに、一番興味を惹かれた。たぶん、つくられた物語より、実話のもつ強さが携帯電話というツールにはまったのかなと思う。なかで、藤原氏のコメントがとても印象的だった。(私の記憶のなかの言葉なので、ご本人のナレーションまんまではありません。)

携帯で、しょっちゅうメールをとりかわしていると、次第にもっと深い物語に触れたいという欲求が生まれてくる。それはひととして自然な現象だ。もっと深い物語に触れたいという思いが、携帯小説にたどり着かせるのではないか。そこにあるのは、ひとの心の深淵に触れたいという、ひとの基本的な思いである。最近のひとは本を読まず、携帯ばかりというけれども、「ひとの心に触れる作品に出会いたい」という強烈さは、昔と変わらないのではないか。

こんな内容のことをおっしゃっていて、そうなんだよなーと思いました。友達とのなにげないメールのやりとりだけでは、たどりつけないものがあって、それが、携帯小説へとつながっていく。そこで読めるのは、作家が練り上げたフィクションではなく、自分とさして変わらぬひとが書いた、「実話」である。

実話は強いよね。が、プロの作家と言われているひとたちだって、ほとんど実話みたいな話を書いているひとは多いし、去年のベストセラー「東京タワー」だって、実話でしょう。フィクションでひとを感動させるのって、物語が出尽くした感のある今、きっと相当ハードルが高いのだろうなあ。

番組については、もっと携帯小説家の意見を聞きたい気持ちもあったけど、たぶん、インタビューしても、それほどの強い主張のようなものがとれなかったのではないかと想像した。面白いコメントあれば、使っているはずだし。

とすれば、携帯小説家は、一度きりの強烈な実体験を書くことで終わり、その後も作家人生を送るということもないのかもしれない。では、携帯小説そのものはどのように進化していくのだろうか。もっと過激な実体験を求めていく?それとも、次第に読み手が洗練され、結局はプロの手による、フィクションに収れんされていくのだろうか。

が、そうでもないのだろうなと思う。マンガのことを考えるとわかる。子供がマンガをたくさん読むようになったあと、どうなったかというと、一生、マンガを読むひとが増えたということだ。今では、深夜にアニメやってるし、マンガで育ったひとは、決して、マンガを卒業したりしないのだ。マンガとともに大きくなる。

とすれば、携帯小説も、十代の恋愛を描くものばかりではなく、20代、30代の主人公を描くものが読み手の成長にあわせて生まれてくるだろう。生涯、携帯小説を読んで生きていくのだ。…と思う。

今に主婦の苦悩を描いた携帯小説がベストセラーになったり、負け犬主人公ものなどが売れたりするだろう。ということを感じました。

一方で実体験の強さに今更ながら、恐ろしさを感じたのだった。ノンフィクションっていざとなると、強いです。どんなテレビドラマも、大きな事件があった夜には、ニュース番組に視聴率とられますからね。ふむ。余計なことを考えるのはこれくらいにして、自分の世界に戻ろう。