山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

トラウマ語りと狂いやすいわたしたち

うひゃ、斎藤環さんという精神科医の「心理学化する社会」を読む。

そもそものきっかけは、最近にわかに桐野夏生フリークになった私が、新潮社から出ている、「THE COOL 桐野夏生スペシャル」というムック(雑誌形態のやつ)を読んだことに始まる。このなかで、斎藤氏が桐野さんの小説を解説していて、とてもひっかかる言葉があったから。

長いけど引用します。

「いやしくも作家ともあろうものが、「学問的正確さ」などに屈してどうするのか。だから、私は、「心理学」や「精神医学」をベタに援用しようとする作家の怠惰さを今後も許すつもりはない。それらは見かけ上、どれほど「文学的」であろうとも、最終的に小説の息の根を止めてしまうような人工甘味料にほかならないからだ。私はすべての作家が自前の「心の理論」と「関係の科学」を持つべきであると本気で考えている。

つまりですね、昨今の小説は、斎藤さん言うところの「トラウマ語り」が多いということ。過去の辛い経験があったから、人を殺しました。子どものころ、親に虐待されたから、今、こんなんですという、すっかり市民権を得た、トラウマがひとを動かすというセオリーを踏襲している小説が数多く流通しているということ。それに対して、精神科医自身が違和感を覚えるということだった。

そうだよなあ、と自分を反省しつつも、びくっとして、さっそくこの著者の本を読んだ。そしたら、ほんと面白かったす。徹夜なのに、そのままもう一日徹夜して読んでしまった。だから、今、猛烈に眠い。

先日も4人の男女で飲んでいて、いろいろ話すとそこにいた全員が、カウンセラーに通っているのである。もはや、精神科に行くことなんて、日常風景になっている。みんなが自分は少しおかしいと思い、さっさとカウンセリングに行くのだ(もちろん、わたしも)

その結果、どういうことが起こってくるかっていうと、「トラウマ語り」という現象が生まれる。「私って昔こういう目にあったからー」とか「うちの親はこうだからー」というわけで、今の自分の傷つき易さや、ダメさ加減をトラウマによって説明する癖がつくらしい。そしてその弊害が、相手はカウンセラーじゃなくても、一方的に、「告白」ばかりしちゃうらしい。
この本は2003年発行なので、すでにその流行は定着しているのかもしれない。しかし、そういう目で周りをみまわしたら、 キャー、トラウマ語りばっかりじゃん。

顕著なのは、ハリウッド映画、ということですけど、日本のテレビドラマも負けちゃいません。サスペンスもののクライマックスで、追いつめられた犯人が、犯行の動機や経緯を説明するのって、まさにトラウマ語りだよね。

と、ひとごとみたいに言ってますけど、実は昨晩、応援で書いた刑事ものドラマでも、クライマックスでやらせてしまったわ、トラウマ語り。われはいかにして、殺人者になりにしか。ってやつ。

これから小説書くとき、気をつけようと思った次第。なにしろ、医学部に進み、精神科医になるつもりだった私(医学部落ちたからね)、つい。文学より精神医学を信じる傾向があるかもしれない。そんなんじゃだめじゃん。斎藤先生がおっしゃるように、独自の「心の理論」をつくりあげ、カウンセリングいくより、アンタの小説のが効いたって結果をださなきゃ。

そんなわけで、覚醒時間30時間をすぎ、朦朧としてきたので、乱文にて失礼。

小説の力を小説家が信じなくてどうすんのさ。

あ、もうひとつ、面白かった「狂気の大衆化」については後日。