山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

ファストフード・ファスト文学

昨晩から逗子の家に来ている。こっちに来るときは、読む本を持参するのだが、昨夜、衝動的に出発したので、本を忘れた。で、こっちにあるもので、読み物を探したところ、河出書房から出ている、「中上健次・没後10年」というムックを発見。遊びに来た誰かが、忘れていったもの。それをぱらぱら読んでいる。

それで、ぼんやり考えたのが、ファストフードに対するファスト文学つうもんがあるんじゃないかってこと。ファストフードとは、いわずとしれたマクドナルドに代表されるような、早くて安くてどこでも同じ味のものが食べられるものたちのこと。若いひとを中心にすっかり生活にとけ込んだ食べ物だ。けれどもマックにしろ、ケンタッキーにしろ、日本に上陸したときは、「アメリカ的な食べ物」として、結構な憧れをもって迎えられていた。しかし、時は過ぎ、ファストフードは、手軽でいつでもたべられる日常の風景になった。これと同じようなことが文学というか小説の世界でも起こっているんじゃないかな、という話。

先日、友人の演出家が、ある本を映像化することになったといって、その本を見せてくれた。詩のようなエッセイのような短い文章のつらなりの作品なんだけど、なんと200万部も売れているという。奥付を見ると50刷近い。ひゃ~。しかし、私もその場にいた他の女子もそのときまで、その作品もその作家の名前も知らなかった。けど、売れていてちゃんとファンがいるんわけだ。

自分にとって、本とか文学って、それこそ、中上健次に代表されるような、生きる意味を問う、とか、作家が命がけで生涯書けて書くものと思ってきたところがあって、だから、安易に作家になりたいなんて思っちゃいけないと戒めてきたところがあった。けれども、今ってそういう空気の作家や作品はあまり歓迎されていないように思う。発行部数の問題ではなくて、文化のメインストリームにそういう作家が登場しなくなってしまったなあというのを実感する。中上健次のムックを読んでいると、柄谷行人、村上龍、丹生谷貴志などが登場し、「中上文学」について語っている。面白いなあと思う一方で懐かしさを感じた。いわば、こういう文学って、ファスト文学の対局にあるように思う。

ファスト文学の特徴は、手軽に読めて、人生に衝撃を与えることはないけど、ほんのちょっとの空腹を満たすような気持ち良さがあるということ。と同時に結構すぐに忘れてしまうし、特定の作家を読み続けるというより、「泣ける本」とか「純愛」とかってジャンルモノになってる。これ読めば手軽に泣けるよとか、恋愛の切なさが感じられるよという、効果で本が求められているように思う。ずっしりと重い一冊を立ち止まりながら、考えこみながら読むという行為は、歓迎されない。(つまり、売れない)「一気に読めた」は完全にほめ言葉になってるし。

もちろん、マックにも行けば、たまには、手の込んだ料理を出してくれる小さなビストロに行くこともできるように、ファスト文学では飽きたらず、食べ物にならって、スロー文学と仮に呼ぶとして、文学を意識した小説に手を伸ばす人も少しはいるんだと思う。マーケットの規模で考えたら、小さなビストロを目指すより、マックの方が儲かるの自明だけどね。

そんなわけで、偶然にもファスト文学と、スロー文学の双方にふれてしまって、こんなことを考えた。もちろん、私は、スロー文学が好きなんだけれども。