山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

死を意識したものが流行るのは。

若くしてガンにおかされたサーファーの映画とかを例にあげるまでもなく、昨今、命に限りのある主人公の物語がメディアをにぎわしている。と、他人ごとのように言っているが、自分だって、「余命わずか」の主人公をしつらえた小説を出したばかりだ。(拙著についてはとりあえずおくとして)。

でさー、なんでそうなるのだろうと思うのですが、「重い病気を抱えたひと」を前にすると、自分の悩みが小さく見えるという効果があるからなのだろうか。自分もいろいろ最低のどん底にいるんですが、時に、友人が病気と闘っている様子を聞くと、深く頭を垂れ、こんなことで世をはかなんでいるのは、申し訳ないな、自分など、生きているだけで感謝だな、仕事があって、住むところがあって、犬もいるなんて、ものすごいラッキーなことなのではないかと思えてくる。いただいた命を無駄にせず、日々精進しようじゃないか、とまでは思わないけど、多少、殊勝な気持ちになる。

ということは、「死」を前提にして気づかせないと、それほど多くのひとが、私のように現状に不満を持って生きているということだろうか。強烈な味にしか反応できない、味覚音痴みたいに、生きることにあまりに自覚も感謝の気持ちもないから、普通の物語ではまったく響かず、「死」という大問題を掲げない限り、
「泣きました!」とか「感動しました!」とか「心に刺さりました」という感想を引き出せないのか。

だとしたら、「死」を扱う物語の横行は、実は、鈍いひとが増えているってことの証ではないか。あえて「鈍感力」を薦めなくても、充分、みなさん、鈍感になっているのではないかしら。あるいは、このようなフクザツな時代は、鈍感になって、ひとが死んでから初めて気づくくらいじゃないと、やってられないということか。

お気に入りの漫画「臨死!江古田ちゃん2」がやっと届き、これを読んでいると目がぱーっと覚める思いがする。江古田ちゃんは、江古田のアパートに住む、フィリピンパブで働いたり、ヌードモデルをしたり、彼氏には、本命の彼女がいたり、常々、失敗続きの24歳の女子ですが、江古田ちゃんのいうことって、間違ってないんだなあ、思わぬ正論。思わぬ、まっとうなひと。まっとうな感覚では、生きにくい世の中でございます。