山田あかねの一喜一憂日記

テレビディレクターをやりながら、小説書いてます。映画も撮りました。脚本なども書いてます。 本、買って下さいね。

都合のいい幽霊

さきほど、最近、多く見受けられる、死んだ人が幽霊になって、会いに来る…というストーリーが多いので、それに対する違和感をツイッターに連続投稿しました。

ココで、ひとまとめにもなってますが、こっちの日記にもコピーしておきます。

しつこいなーと思った方、ごめんなさいね。でも、言いたかったのだもの。追加もあります。

最近、死んだひとが幽霊になって会いに来る…的な話、多いなー。前からとも言えるけど。震災以後、ますます増える予感がするけど、この「幽霊になって会いに来る」という構造の作品のなかで、嫌いなところについて書きたい気持ちがある。多くの、心優しい人を敵に回すけど…。

誰でも大切な人を失った経験はある。すると何か会った時、その亡くなったひとが「守ってくれる」とか思ったりする。自分もそうだ。昨日、ちょっといいことがあって、その時、「あーこれはミニからのプレゼントだな、まだ、映画で頑張れと言ってくれているのだな」と思った。

ミニは犬だけど、亡くなった大切なものという意味では同じ。映画とミニは関係ないけど、そういう風に思ったりする。なのでそういう気持ちがあることは否定しないんだけど、作品にしたとき、どうしても気になることがある。それは、「都合のいい幽霊」についてだ。

「都合のいい幽霊」とは、生きている自分にとって、都合よく現れる奴のことだ。つまり、「生きているボク」を無条件で助ける。よくあるのが、先に死んだ妻が残された夫のためにやって来て、家事をやったり、世話をしたり、励ましたりするやつ。「死んでまで、夫の世話をするのか」

「死んでまで夫の世話をする妻」タイプの作品は結構多い。死ぬのも女性が多いのだ。四谷怪談のように、幽霊とは女性が似合うのかもしれないけど、最近の幽霊は恨まず、男の世話をしにやってくる。しかもたいてい、その男はたいしたことない奴なんだな。

「死んでまで僕のことを心配してくれる君」という理想があるのかもしれない。しかも、相手は死んでいるので、こっちは新しい女子を捜すことも許されているし、一方で、相談にも乗ってくれたりして、とても都合がいいのだ。そこが不満なんだ、私は。

先に死んだモノには、彼女なりの後悔ややり残したことがあるだろう。それが「男の世話」ばっかりなの?好きだった男の行く末を心配することだけなの?彼女の無念はどうなるんだろう…幽霊として戻ってくるには、そういう主婦タイプじゃないとダメなのか?

もし、私が死んで戻ることができたら、好きだったひとの世話もするかもしれないど、幽霊になってなにかできるなら、やり残した仕事をするかもしれないし、もっと広く助けられるひと(及び、犬)を助けるかもしれない。なので、幽霊ものが苦手なんだ。

結局、「都合のいい幽霊」は、その主人公の願望を手軽に叶えるための道具になってしまう。死者を道具にすることに私は戸惑う。死を受け止めることはきついことだから、幽霊や甦りを想定することで、気持ちをなだめる…というのはわかる。宗教の始まりとして。

でも、やっぱり、死者を物語の道具にするのはいやだ。もし、幽霊を描くなら、幽霊そのもののためであってほしい。先に死んだものの無念をはらすようであってほしい。「生きているボク」の都合のいい道具であってはいけないのだ。それは死者への冒涜であると思う。以上です。

震災後、死があふれているなか、死者の思いを語るようなのって、すごく、どうしても、立ち止まってしまう。それを作品にすることは、そこからなにかをもらうことだ。死者から、すでに死んで無念なモノからさらになにかをもらおうとすることに謙虚でありたいと思う。

以上が、ツイッターに書いたことです。

続きをちょっと書くと、「都合のいい幽霊」ものの気になるところは、宗教色が排除されていることと、死後の世界に対する、構築がされていないこと。

その幽霊はどこから来て、どんな場所に戻るのか…という、幽霊にとって、一番重要…だって、いずれ、そこに戻るわけだから…その点については触れずに、現在、生きているものに役立つところしか描かれていないことが多いと思うんです。

それが、死者を道具にしている…と感じるところ。

これは、死者ではなく、幽霊というかたちをかりた、便利な人形なんだよね。しかし、人形として描くと、感情をゆさぶりにくいので、(涙を誘いにくい)ので、やはり、かつて生きていた人間であってほしいとなる。

たとえば、「空気人形」(是枝裕和監督)は、人形が生き始めて、人間の世界を逆照射する構造になっている。人形は幽霊ほどやさしくない。しかも、人形には感情移入もできなければ、哀感も誘いにくい。

これに対して、多くの幽霊ものは、感情移入しやすく、作ってある。誰でも死に別れたひとはいるし、「死」はそれだけで、絶大な悲しみと物語を持っているから。死者を批判することはできないから。

そのような「甘え」にのって、作品をつくることに違和感を覚えるということでした。西洋だと、甦りといえば、キリストになってしまうので、そうそう、都合良く幽霊を描くことができない構造がある。

その点、日本は自由でいいととらえるか、死者について、深く考えることなく、便利な道具として使うかは、使う側の(作るひとの)、志の高さによると思う。

そのことが、ずっと気になっていたのでした。