山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

落ち込んでいるんだか、なんkだ。

昨晩、ミシェル・ウエルベックの「闘争領域の拡大」を読んで、面白かったけど、漠然と落ち込んだ。

当然だ。だって、救いのないお話なんですもの。闘争領域=高度資本主義社会のなかでは、なんでも闘争の対象になって、息苦しいって内容だもん。かつては見合いなどで、平等に分配されたパートナー(あるいは配偶者)なども、恋愛に自由競争が持ち込まれた結果、もてない奴はずっとひとり、もてる奴はあっちこっちで楽しめる…ということになったとウエルベク(が託された主人公)は言う。実際、彼の友人は、その外見のあまりの醜さに全然女性から相手にされない。ならいっそ、うまくいってる奴らを殺しちゃえよ!と主人公はその友人をそそのかすんだけど、そんなことはできなくて、代わりに泥酔した挙げ句に運転して、交通事故を起こして死ぬ。他にも主人公の仕事相手で、全然美人じゃない女性が出てきて、彼女の不幸を想像して、主人公は落ち込む。けど、なにもできない。そんなこんなのすえ、主人公は、どっか壊れてしまって、「鬱病」と診断され、入院。救いなし。出口なし。

たださ、これらのお話は一面の真実だけど、一面でしかない部分もある。読んでいる最中は面白いし、「そうだ、そうだ」と深く頷きながら、読み進むけど、一晩たって、冷静に考えるとさ、交通事故で死んだ醜男にしたって、救いはあったはず。仕事で成功してお金持ちになればついてくる女子だっていただろうし、整形手術だってあるし、どっちもなくても、ひとりくらい、彼を愛してくれる女子を見つけられないはずはない。そりゃ、もちろん絶世の美女と大恋愛という可能性は低いにしろ、可能性ゼロじゃないし、努力しだいでなんとでもなったように思うよな。

一時、純愛小説というのが、盛んになりましたけど、これは、「お金持ちじゃなくても、ハンサムじゃなくても恋愛できる」というのが、結局のところテーマのような気がする。「ひとりだけなら、相手をなんとか見つけられるから、そっち方面で努力し、見つけたら大切にしょう」というのが、純愛小説に隠されたテーゼではないでしょうか。ウエルベックの対局をいくのだ。

純愛小説に加担するつもりはないですけど、ウエルベックほど、悲観していると、もともとない生きていく気力が、根絶やしにされてしまうので、その中間地点でさまようのだった。続いて、レイモンド・カーバーの短編集「大聖堂」のなかの「羽」という短編を読む。そしたらさ、この小説はウエルベックに対するお答えみたいな感じなんだよなあ。「イケてない夫婦の非常に醜い赤ん坊」。主人公は美人の妻とふたりで、この冴えない夫婦の田舎の家を訪ねて、その子供のあまりの醜さに驚くんだけど、それでもなんともいえない、経験をして、帰ってくる…というお話。主人公夫婦は、子供を作ることを決めて、少しの間は幸せに暮らす。けど…という辛らつな結末だった。

いろいろあっても、最後は死ぬだけだ。ってことしかいえないけど。しかし、「闘争領域の拡大」のなかで、病院で死んでいく老女の話と、走れなくなった競走馬の末路が重なって、なんか落ち込んだ。競走馬は経済動物だけど、人間も結局は、経済動物で、経済というサイクルに参加できなくなったら、安楽死が待っているのだろうか。もちろん、暗闇で刺されて死ぬよりは、温かいベッドで安楽死のほうが、いいかもしれないけど。