山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

迷ったら、すすむ。

「石橋を叩いて渡る」ということわざがある。

慎重に慎重をきする…というような意味でしょうけれども、自分の場合は、「石橋はなくても渡る」であった。前半生、川があれば、濁流でも、向こう岸に行きたいと思えば、溺れたり、流されることを覚悟して、川に飛び込んだものである。その結果、予想通り流され、溺れ、ひどい目にあうことが多かった。満身創痍で目を開けてみたら、同じ場所に戻されていたり、思ってもみない助け船に拾われて、向こう岸にたどり着いたこともあった。(すべて比喩ですよ、比喩ね)。

しかし、最近、石橋を眺める…って感じなってる。もう、さほど、向こう岸へ行きたいという切実な感じがしなくなって、石橋を叩くこともせず、ぼんやり川辺に立ってる感じ。これってまずいのかな。けれども無理やりその気にさせてもしかたないもんね。

と、こんなつまらない例え話はともかくミシェル・ウエルベックの「ある島の可能性」にやられっぱなしである。うぬぼれを承知でいえば、ウエルベックさんって私と考えてることがすごく似てるんだもん。まず、小さなところでは、犬に対する思い。あれだけシニカルなウエルベックなのに、こと犬に関しては、筆がゆるむというか、犬への愛情と畏敬の念がふれてしまうのね。生物界で、唯一愛を体現しているのは「犬だけ」みたいなこと書いてるし。(私もすごくそう思うのね)。

そして、「老い」について。老いといっても、ウエルベックはまだ40代の後半なんだけど、若くないことに対する容赦ないおそれがクールに書いてある。主人公の40代の作家は、20代の美人女優に恋をする。つきあうことになるんだけど、しじゅう、彼女の若さに憧れつつ、嫉妬しつつ、複雑な思いを拭いきれない。ま、私は女なので、ここまで若い女に執着してしまう中年男性の気持ちって切実にはわからないけど、なぜなら、自分は、別に20代の美形の男性を前にしても、そんなに感動しないし。けど、多くの中年男性作家は、ここまで若い女に翻弄されても、どっかで矜持を保っているというか、保っているようなことを書く。若い女子が、結局は自分に溺れていくとかなんとか、事実かどうか知らないけど、読者の多くの中年男性を喜ばせるようなことを書く。ウエルベックはいっさい、そういうこと書かないのね。いつまでも惨めな中年ぶりを書く。この読者に対する媚びのなさにしびれるのだ。

中年の男性と若くてきれいな女の最後の恋…なんて書くと、多くのオヤジたちが、「俺にもチャンスあり?」と尻尾を振って読みたがる。すると、その本は売れるわけだけど、そしてそういう本多いでしょ。いわゆる「オヤジ慰撫小説」。本屋のひとつの棚はこれで埋めることができるくらいある。それだけ中年オヤジの危機感も強いのかもしれないけど、ウエルベックはそんなもん、切って捨てるのね。そんなことより、ニンゲンの真実に迫ろうとする、本来の目的を遂行するわけだ。それで結果的に高い評価を受けることができるのだから、いいよなあ。(が、大きな賞をいつも逃しているか)。

それにしても、ワインと同じで、女性も熟成したほうが好まれると言われている思っていたフランスでも、自体は同じだったんだなあと思う。カルト教壇のありようとかも含めて。この小説を読んでいると、面白いけど、絶望的な気分になる。が、まだ後半が残っているのでわかんないけど。

と、タイトルと全然ちがうことを書いてしまった。