何日か前の新聞に、「ノーケイタイデイ」のことが書いてあった。(@朝日新聞)。
一日くらい、携帯電話の電源を切って暮らそう…みたいな提案をし、実行しているひと(文化人です。名前、失念)について、書かれていた。
なるほど、携帯に支配され、依存しきってる毎日、そういうのもアリなんだろうと思った。が、
「ノーテレビデー」みたいなことも、昔言われたような気がする。一日くらいテレビを消して、家族との対話を愉しもう…みたいな感じで。今や、「ノーテレビデー」なんて、わざわざ言わなくても、テレビを見ないひとはどんどん増えているし、テレビがこれまで担ってきた情報発信は、インターネットに移りつつある。「エブリデイ ノーテレビ」が実現しつつあるのだ。(私も仕事以外だとほとんどテレビを見ない…)。テレビを見ると、バカになる…と心配していた評論家のひともいたけど、ご安心下さい。もう、そんなにテレビ見ませんよ、日本の民は。
さらに、「電車に乗ると、若者はマンガばっかり読んでいる」という批判もかつてあった。最近は、「マンガ」の部分に携帯が取って代わった。かつては、嘲笑の意味で使われていた「マンガみたい」は、今や、そうでもない。マンガ=芸術という認識も生まれ、マンガはある一定の地位を確保したし、テレビも映画もマンガ原作ばかりだし。こうして、メディアの中心は移りゆくのだなーと、それだけのことをぼんやり考えました。
もっとずっと昔、新聞記者って「ブンヤ」などと呼ばれて、ちょっと不良っぽいイメージがあった。反権力とか。今って、そういうの全然なくなっているよね。大企業のサラリーマンのイメージだし。イメージも移りゆく。いまだに、「テレビのひと」っていうのは、多少、侮蔑の文脈で使われるのかもしれないけど、それも、もう少しで、テレビがメディアの王者の地位を失えば、同時になくなるだろう。さみしいような、どうでもいいような。
「ノーケイタイデイ」みたいなことを、世の中はやりたがるよね。世の中って誰だかわからないけど、「交通安全デー」のひっくり返しみたいなものかな。交通安全デーをやると、確かに交通事故は減るらしいし。つまりそれは、「お祭り」と同じ効果か。(すごい飛躍です)。
農耕の民であったわれわれは、年に一度か二度、「なんでもあり」「乱れていい」「遊んでいい」=お祭りの日を儲けることで、ほかの364日間を、なんとかやりすごしてきたわけですね。そういうやり方ってありなんでしょう。農耕ライフには。そして、サラリーマンライフにも同様なのかもしれない。が、
フリーランスのひとが増えると、そういう「祭り」による解放って、どうなんだろう。言ってみれば、毎日が祭りとも言えるし、永遠に祭りの来ない日々とも言える。わからん。
実は、今日、外出時に携帯を忘れまして、結果的にノーケイタイデーだったのでした。本人が心配するほど、携帯つながらなくても誰も困ってなくて、さみしいやら、なんやら。
くだ。
なんとなく、1年の疲労がじんわり来ている感じです。