山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

恋愛しない女たち。

同じ日だけど、書こうと思っていたことを思いだしたので、書くことにする。それは、映画「めがね」を見ての感想。

映画として面白いとか、感動するとかって話ではなく、この映画の斬新さについてちょっと考えた。「めがね」には、小林聡美、もたいまさこ、市川実日子の女性三人が出てくる。小林聡美ともたいまさこの素性はわからない。小林は、「先生」と呼ばれていることから、作家かなにかではないかと想像される。もたいに関しては全くわからないまま。市川は、中学校の先生であることがわかる。(高校だったかな?まあ、どっちでもいい)。で、彼女たちが主要な登場人物であるけれど、彼女たちの誰一人も恋愛をしていない。いや、しているのかもしれないけど、その件については触れられない。これは実はとても珍しいことなのではないか…と思ったのだ。

同じ監督の「かもめ食堂」もまた、恋愛と無縁の女たちの物語である。恋愛と縁のない女が主要な登場人物になる映画って実は、ものすごく珍しいのではないかと思ったのだ。男だったら、恋や愛より、友情だのビジネスだのをテーマにした映画はいっぱいあった。が、映画のなかの女の立ち位置は、必ず、「恋愛」がらみであったはずだ。「母」をテーマにしたものは結構あるけど、母=かつての女であるから、同一線上にあると思う。

なぜ、女はいつも恋愛がらみじゃないと映画に登場できなかったのだろうか。それはこういうことなんじゃないかと思う。映画の制作者のほとんどが、男性であった。男性にとって、人生のテーマは、仕事や友情や義理や人情やいっぱいある。もちろん、恋愛や結婚もテーマだった。そんな彼らの人生にとって、「女」と関わるとしたら、それは、「母」か「妻」か「恋人」か「愛人」かせいぜいが妹や姉だったろう。そこには、なんらかのかたちで「恋愛」的なものが存在する。男にとって、女とはまず、恋愛の対象者であったのだ。だから、恋愛の対象者にならないタイプの女は、映画のなかでは、主要な立場を見つけることができなかった。

けれども、女は一生恋愛だけをやってるわけじゃない。恋愛以外でも仕事や友情の問題も抱えている。が、映画の制作者の男性にとっては、「そんなもの、どーでもいい話」だったのではないだろうか。「関係のない話」「興味のない話」だったんだと思う。ところが、時代が移り、女性も、視聴者としての発言権を得るにつれ、恋愛以外の女性の問題も映画になるようになったのだ。

そのことをね、漠然と「めがね」を見ながら思ったのだ。自分は小説や映画に子供のころから触れてきて、女とは恋愛しないと存在できないものだと思いこんできた。でも、それだけじゃなかったんだよね。そのことに最近、しみじみ気づいたのでした。とはいえ、自分は、「恋愛」がらみを映画でも小説でもテーマにしちゃってます。これまで書いてきたもの、ほとんどそうだし。

だけど、これからは、もっと別の視点でものを見ていきたいし、作っていきたいなーと思ったのであった。そのことを書きたかったのでした。