山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

舞台「生きているものはいないのか」

今日は、朝から、「名曲探偵アマデウス」のスタジオ収録。おもしろおかしく、順調に終わりました。
詳細はオンエアが確定してからまた、お知らせしたいと思います。とてもユニークな俳優さんに来てもらったので、たのしかったす。

18時にスタジオが終わり、19時半から、池袋で「五反田団」の舞台「生きているものはいないのか」を見ました。五反田団のことは噂には聞いていたのですが、なかなか見るチャンスがなく、先月、「ハイバイ」の芝居を見に行ったとき、同じ劇場で再演があると聞いてさっそく、チケットをおさえた次第。

なんともいえない、かなりとがった芝居でした。タイトルから予想して、「核戦争後の世界」とか、「世界が滅び始めた瞬間」とかそういうものがテーマかな…と考えていました。核戦争は出てこないけど、世界が滅び始める…という設定は遠くはなかったです。

東京郊外なのか、地方都市なのか確実なところはわかりませんが、その町で突然、ひとがどんどん死んでいくお話です。原因もわからず、とにかくどんどん死んでいく。この突然の死の連鎖が起こる前は、その町の大学や病院や喫茶店などで、ありきたりな日常が少しの笑いを含みつつ、だらりと続いていく。いったい、いつまで、この日常の描写が続くのだろうと驚きつつ見守っていると、突然登場人物が死に始めます。まさに「死に始める」。

この舞台の魅力は、「不慮の死」というか、「死」というものがもつ、あるいはもつとされている神秘性の否定にもあると思いますが、それほど、軽くひとがどんどん死んでいくし、ひとが死ぬときに、多くの物語がまとうであろう、カタルシスがほとんどないです。あまりにあっさり、単純に、みじめに、だらしなくひとは死んでいきます。

そして、見所のひとつは、それぞれの俳優たちの、"死に方"の芝居にある。同じ奇病(原因はわからず)によって、死んでいくようなのですが、死に方はそれぞれ。苦しみ方も最後の言葉の発しかたもそれぞれで、それを楽しむような趣向さえあります。あ…また、死に始めた…という感じで、ひとの死を次々と観客は眺めることになるのです。そして、舞台はいつしか、死体だらけに。

書いててびっくりするほど、グロテスクだけど、実際の舞台はちっともグロテスクじゃありません。それは、「死」を過大評価して描いていないからでしょう。「グロテスク」というのも、ひとつの課題評価だから、そういう感じはないんです。ただ、死ぬ。ただただひとが死ぬ。人の死ぬ様子をこれほど、演技で見たのは初めてかもしれないです。

…芝居のあと、演出家の前田司郎さんが登場して、トークがありました。このトークを聞いて、この芝居がやりたかったことがややわかりました。とても正直にテーマを解説してくださったので。見ている間、結末をどう持って行くのかなーと気になっていたけど、いわゆる盛り上がりを否定して終わっていきました。今、終わっていくスタイルでした…と書こうと思ったけど、「特になにも起こらない」で終わるというスタイルもひとつの定番としてあることはあるから。

終わりにカタルシスを持って行くのって、難しい。どんな結末なら納得できるのか、非常に難しい。一方で、「泣ける」「感動的」な結末は、まあ、こういう劇団では絶対やらないだろうし。結末、難しいよなあ。風呂敷を広げるのは、つまり、複雑な設定を考えることはそれほど難易度高くないけど、問題は、広げた風呂敷のしまいかたにあるし。

テレビは、絶対、広げた風呂敷をしまうことを、ある程度の感動を持って、しまうことを要求してくるメディアです。そうじゃないと多くのお客さんから嫌われるから。けど、舞台はね。とことん、突き放しても誰にも怒られないからね。

あー、この「誰にも怒られない」ということがどれほど大切か。あるいは、誰に怒られたっていい…ってところが、創作かもしれないなー。

帰り道、舞台そのものの内容ではなくて、そのあり方について考えこみました。誰に怒られたって、これをやる…って態度こそが、いいのだよなあ。