山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

ブスについて。

ブスについて考えてみたい。

さきほど、「ブス会」という演劇集団のチケットを予約した。ポツドール出身の女性演出家による芝居です。(この芝居については、観劇後、感想書きます)。それで、ちょっと「ブス」について書きたいと思ったわけです。

今は、ブスについて語られ、書かれるようになり、いい時代になったと思う。今でも、わたしのパソコンでは、(マックでatok入れてる)、ふつうに、busuと打つと「分す」と出る。まるで、ブスという言葉が存在していないかのようだ。でも、現実には、存在しないどころか、言葉としてはとても強く流通している。

(あ、広く流通じゃないです、あえて、「強く」流通と書いてます)。

数年前に、「負け犬の遠吠え」をいうエッセイが流行ったことがある。これって、「仕事ができても、美人でも、結婚していなくて、子供がいなかったら、負け」というコンセプトで未婚の女性について語ったエッセイであった。で、ブスという基準はですね、これに非常に似ていると思う。つまり、

結婚していても、子供がいても、仕事ができても、ブスだったら、負け…みたいな…。そういう意識が多くのひとにあるのではないだろうか。特に男性には顕著だし、女性でも、かなりのひとがこの部分でつまづくと思う。少なくとも、自分はつまづく。

つまづくってどういう意味かと言えば、例えば、こんな女性がいたとしよう。

才能にあふれ、仕事で成功、愛する夫と子供もいる。「あのひと、すごいよねー」と女子Aが言ったとする。しかし、女子Bが、「でも、あのひと、ブスだよねー」と言った途端、その女性の価値を暴落させることができるのだ。「そんなにうらやましくもない存在」におとしめることができる。

やな感じだ。しかし、ブスという言葉、基準のもつ力はそれほどでかいと思う。

しかし、一方で、今はよき時代になったなーと思うのは、ちゃんと、「ブス」について語られ、書かれ、そして、ブス、ぶさいくを自称する女性たちが、堂々とメディアに登場することになったことだ。それは、わたしが10代のころには考えられなかったことだ。

当時は、ブスというのは、存在しないことになっていたのだ。いや、実際存在したとしても、その人生は無視されてきた。語られたり、書かれたりすることが好まれなかった。

(「醜女の日記」という小説も存在したけれども、特異なものであった)

けれども、時代が経て、女性が「かわいい」だけの基準で語られていることに、いらっと来るひとたちが登場し、ブスだって生きているぞ、ブスだってかわいいぞ、ブスだって悩みも人生も、そして、消費能力もあるんだぞ、と主張することができるようになったのだ。

これって、とってもよいことだと思う。自分も自分の映画のなかで、ブスと呼ばれたことで、日本を脱出し、海外を放浪する小島小鳥という女子を描いたけど、それはずっと描きたかったテーマだし、キャラだった。

ぶさいくである主人公を書くこと、表現することは、なかなか許されない。日本のメディアでは。たいていのひとびとが、「主人公は、美少女か美人であること」を好むから。読者も編集者も、そっちが好きなのね。その心は、ブスがどうなろうと知ったこっちゃねーってことなんですね。

なので、日本の小説やドラマや映画の主人公もしくはヒロインは、美女であることが第一義的に要求される。あとはバリエーションにすぎない。清純な美女か、悪女だけど美女か、難病だけど美女か、仕事できようができまいが、才能があろうがなかろうが、真実にはいっさい、関係なし!わがままか、誠実か、性格なんて本当はどーでもいいのである。大切なのは、美女であることだ。

以前、初老の編集のひとに、「40歳近い女がどうなろうと知ったこっちゃないので、そんな主人公の話はつまらん」と言われたことがあるけれども、彼自身が60歳近いじじいのくせいに、女はいつも10代か20代で美形じゃないと、ダメ!って思ってたんだよねー。

で、ブスの話に戻る。そのような状況下で、ブスについて語るのは非常に難しいのだった。その場所が提供されないから。主人公をブスとして描くことは、挑戦なのだ。「そんなもの、売れるわけないだろう」と言われる。そして、実際、売れにくい。

けれども、マーケットはともかく、やっぱり、ブスについて、ブスという言葉が放つものについて、語られないといけないと思うし、自分が語りたいし、考えたい。「ブス!」とひとこと言われただけで、地獄に落ちたような気持ちになるのはなぜなのだろう…とかさ。

でも、それを逆手にとって、明るく「ブスブス」と言い放つことで、ブスという言葉の持っていた重く暗いイメージを払拭しているひともいると思う。大人計画の芝居とかでそれを学んだ。松尾スズキさんが、「ブス!」って言うと、あまり傷つかない。

多分それは、ブスという言葉に込められていた負の歴史を笑いとばすことになるからじゃないだろうか。そして、最初に、自分が、今はいい時代になったと言ったのは、「ブス!」と明るく笑いとばすことで、それまで存在しないことになっていたものに、居場所を与え、存在を認めることで、道を作ること、息抜きすることができるからじゃないだろうか。

もっと語られるようになれば、その呪術的意味が失われていくと思う。

だって、ブスかどうかなんて、とてもささいな差別化の結果でしかないんだから。つまらんオヤジたち及びその子孫が、狭い美意識のなかで、取り決めたみみっちい基準でしかない。

そう思っている。そんな基準に縛られて、一喜一憂しなくてすむような世界になればいいのに。