山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

映画『川の底からこんにちは」と「トイレット」

今日は早稲田松竹で、映画「川の底からこんにちは」と映画「トイレット」の2本を見た。

早稲田松竹に行くのも久しぶりだったし、(学生の頃はよく行きました!)、2本立てというのも、久しぶり。

どっちも見逃していたので、この際、えいやっとばかり見て来た。

自分は映連…監督協会に入っているので、900円で2本という、ちょっと申し訳ない金額でした。映画を作るのがどれだけ大変かわかっているだけに、心苦しい…とはいえ、協会費をそれなりに支払っているので、実は、そんなに変わらないんだけど…。

…と、前振りはともかく、どっちも個性的で面白い作品だったけど、共通しているなーと思ったことがいくつかある。

1)悪人が出てこない。

2)性的な描写が少ない…というかほとんどない。あっても淡泊。

3)出てくる女性が、セクシーじゃない…いわゆる、型にはまった「セクシーさ」を振りまく女性は出てこない。
  
4)大きな野望を持ったひとが出てこない

5)大事なひとの「死」が出てくるけど、過剰な悲しみを盛り上げない。

だいたいこんなところでしょうか。

大事なひと…親とか結婚相手とか恋人とか子どもとかの「死」が出てくる作品って、過剰に涙を誘うような構造になっているものが多いし、それがまた、たくさんのひとに望まれているんだけど、(実際、観客動員数を延ばしている)、けど、この2つの映画はそれをしてない。

日常と地続きで「死」があること、そして、それは悲しいことには違いないけど、号泣を要求するような演出がされてない。そして、死は、結構、おかしみを含んでいることが、丁寧に描かれている。

その点、とても品のよい演出。

そして、ちょっと考えたのは、この5つの共通点って、たぶん、昭和の時代の日本映画にはけっこう、欠けていたものだろうなーと思った。

一番変わったのは、女性の描き方だと思う。かつて、日本映画に出てくる女性って、主演の場合、とってもかわいいとかセクシーとか、美しいとか、とにかく、「男子」にとって、魅力的なタイプが多かった。「映画って女優を見にいくものなのだ」…と宣言した、自主映画時代の友人(男)もいたくらい。

それくらい、伝説の美女たちが登場して、彼女たちは、決してトイレにいかないような、殿上人のようであった。
あるいは、あきらかな遊女タイプ。エロスを振りまくことで、存在をアピールしていた。

が、この2本の映画にはそういう女性は皆無である。「トイレット」はタイトルからして、トイレにまつわるエピソードが出てくるし、「川底」は満島ひかりさん演じる主人公が、自分の汚物を畑に蒔いたりするのだ。トイレに行って排泄する、リアルな人物なのだ。

これらは一例なんだけど、そういう等身大というか、過剰に「女性性」を持たされていない主人公、登場人物ってホントに、心地いい。安心して見ることができる。

そして、やっぱり時代は移り変わっているんだなーと思う。戦争が終わって半世紀以上が過ぎて、平和で、不況と言いつつも、コンビニには食べ物があふれ、おおむね、恵まれて大きくなったひとたちから見える世界は、少し退屈かもしれないけど、声高に訴えることは特になし!というものなんじゃないか。

なので、大風呂敷を広げずに、物語を進めていく方法に、「今」を感じた。

なんか、漠然と日本って(「トイレット」の舞台は日本じゃないけどさ)、こういう国なんだよね、おおむね…という気分にさせる映画だった。