ICU(国際キリスト教大学)で、ミスコンを行うかどうかで、もめているようです。
反対声明を出す方たちがいて、ツイッター上でもかなりの盛り上がりをみせています。
それに対して、「ミスコンに反対なんて、うぜえ」って態度の方も多いようです。
「女性を容姿で判断するのは差別だ!っていうけど、学力やら運動能力やら、あらゆる基準で判断されているのが、この社会なんだから、今更、文句言うな!」みたいな意見も読みました。
また、「能力(=容姿の美しさ)のあるものが、褒め称えられるのは、当然だろ」という意見も。
こういうのを読んでいると、漠然と不愉快になります。
理論的にどうであるか…客観的にどうか…ってちょっと、どうでもよく思う瞬間です。
なんかね、そういう理論的な話じゃなくて、「ミスコン…って聞いたときに、漠然とちょっとやな感じがする」ってことだと思うんですね。
今はもう、じゅうぶん、オトナですから、いちいち傷つきませんけど、例えば、自分が高校生や大学生で、その中でミスコンが行われていたら、「ちょっとヤナ気持ち」になるわけです。
それはもう、明らかに自分は入ることのできない序列が進行して、それを間近で見ることになるからです。
もちろん、スポーツに優れたひと、学力が抜きん出たひと、いろいろいるわけだから、容姿による選抜に過剰に反応するのは、おかしいだろう…ってことになります。
でも、それは「理屈」に過ぎない。
ひとがなにかを漠然と不愉快だ…と思うとき、その根拠はなんなのか…突き詰めて考えることは必要だと思うんですよね。
運動や学力は、努力すれば得られるものだから…という解釈もありますけど、それだけじゃないような気がする。
容姿だって努力すれば、かなり改善されますからね。
けど、「女性を容姿のいい順に並べる」ことに関する、「やな感じ」は、努力すれば得られるかどうか…ではなくて、人生でかなり大事とされている「愛情」というものと強く関わっているんじゃないか…ってことをうすうす感じさせるからではないかしら。
容姿に優れた女性のがもてる……っていう、黄金の真実をあらためて、つきつけられるからではないかと。
(ここで、いろんな反論を予測できます。美人でもモテないひとはいる。ブスでも愛されることはある。まあ、そうでしょうけどね)
いや、なにが言いたいかというと、「漠然としたやな感じ」っていうのが、案外、大事なんじゃないかってことです。
世の中のルールがどうであれ、現実がどうであれ、ほとんどのひとがそれを受容しているようであれ、「なんか、やな感じ」と思ったことを「なぜ、やな感じなんだろう?」って考え直してみるのは大事なことだと思うんです。
「なんとなくいや」なんてことで、ひとさまがやろうとしていることに反対するなんて、できねーよ、日本は自由の国なんだからなー、そっちのほうこそ、言論統制みたいで、恐ろしいよ…と言われるなら、それまでですけど。
もちろん、「なんとなくいや」をつきつめたところ、「いやじゃなくなる」「どうでもよくなる」ということもあるんですけど、今のところ、女性をあからさまに容姿で順番つけるのを大学などでやるのはあんまり好きじゃないなーってだけですね。
外の世界でたっくさん、やっているんだから、わざわざやらんでもいいでしょう…って思う。
自分は大学で自主映画を撮ってましたが、それを「不愉快」と思うひとがいて、「大学の外に映画はあるんだから、大学でやらんでいいだろ」って言われたら、同じなのか…と考えこみましたが。
「いやだ!」っていう自由もあるはずだ。
うまくまとまらないなー。
ほんとは大学生の頃のミスコンに関するちょっとしたエピソードを書くつもりだったけど、やめておきます。
たとえば…
ひとを殺すのがいやなのは、法律で決まっているからでも、それが悪いことだからでもなく、「いやだから」だと思うんです。ひとがひとを殺す様子を見て、「いやだ」と思う。自分が殺されそうになって、「いやだ!」って思う。
理論や善悪の基準はあとから生まれてきたものにすぎない。
人殺しはいやだね…って思うひとが多いから、法律で禁止され、「悪」に認定されたんですよね。あとから解釈はついてくる。
だから、女性を美しい順番にならべて喜ぶひとたちをみるのは、いやだってひとが多くなったら、それは「いやなこと」に認定されるのではないかしら。そして、認定されるかどうなんて、本質的にはどうでもいいような気がする。
私は、たくさんの犬が殺されることがいやなんですけど、それは、いやだからです。牛や豚は殺して平気で食べているのだから、恣意的なことはわかってます。でも、いやなんです。
そういうことじゃ、ダメですか。
でもいつか牛や豚も殺さないでいられるようになるかもしれないし。