山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

さくら鍋。

今日は、仕事で、深川へ行った。

帰り道、桜鍋のお店でお昼ご飯を食べた。

まるでタイムスリップしたような店内。



外はものすごく暑かったけど、風が抜けるのか、店内は涼しい。強烈にクーラーがかかっているわけじゃないのに。



でもって、こちらが「さくら鍋」。つまり、馬の肉のお鍋です。



見た目も味も牛肉に似ていた。牛肉より、さっぱりしている。鍋の味付けは、すき焼きに味噌が投入された感じ。

これに、しらたき、ネギ、麩、などが入る。ご飯と一緒にいただいた。甘辛の懐かしい味でおいしかった。

店の奥には、坪庭があり、馬頭観音もあった。

馬頭観音とは、馬の観音さま。

以前、「もしも、この世に天使が。」の取材で、北海道の日高に行った時、何度も見かけた。サラブレッドを育てる牧場には必ず、この馬頭観音があるのだ。

それを見かける度に、日本人の宗教観について思う。日本人の…って、自分も日本のひとだけど…。

世界にはいろんな文化があり、くじらを食べることもあれば、犬を食べる習慣のある国もある。いろいろだ。

人間にとって、友情関係を結べる、犬や馬、いるかを食べることに、抵抗があるひともいるのかもしれないし、自分は、犬はとても食べられないけど、でもだからって全否定する気はない。

生き物は生き物を食べるしか、生きる道がないのだから、ある部分はしかたないと思う。特に昔は、今よりも「食べもの」を確保することが生きることそのものだったのだから、なおさらだ。

けどさ、そんな事情のなかでも、「馬頭観音」を作って、食べてしまった馬に「ごめんね」って気持ちを表す…ってこと。

それはなにも「食べる」ことだけじゃなくて、馬は、かつて、労働力であったし、交通手段でもあったから、馬に対する敬意と感謝が込められているんだと思う。

馬さん、ごめんね、ありがとう…そういう気持ちが基本にあって、馬頭観音が生まれたんだと思う。

そういうことを考えると、日本人の宗教観って、悪くないじゃん…って思う。

ちゃんと人間以外の生き物の魂を認めている…というか。

もちろん、そんなもの「気休め」に過ぎないって言うひともいる。実際、言われたこともある。

人間の側の罪の意識を軽くするための装置に過ぎない…とか。

けどさ、なにかを食べないと生きていけない以上(もちろん、ベジタリアンの道もあるけど)、「ごめんね、ありがとう」という気持ちがあるとないとでは、やっぱり違うんじゃないかって思う。

罪の意識を軽くするためじゃなくて、食べることを意識する装置になっていると思う。そう思えば、やたらに残したり、必要以上に頼んだりしなくなるだろうし。

…そんな複雑なことばかり考えていたわけではないけど、新鮮な体験だった。

とても感じのいいお店でした。