山田あかねの一喜一憂日記

テレビディレクターをやりながら、小説書いてます。映画も撮りました。脚本なども書いてます。 本、買って下さいね。

素朴な正義感

今日は、テレビの仕事の打ち合わせで経済学者の方に会った。

いやーすごく面白かった。秋に経済番組を作るのでその取材であるけれども、「経済」というおよそ自分とかけ離れたテーマだけに、知らないことが多くて、だからこそ、興味深かった。

(今後作る番組については、また、具体化したとき、ここでお知らせしたいと思います)

取材のなかで知った言葉で「素朴な正義感」というのがある。

経済学者が法学者をちょっと揶揄して言うときに使うらしい。

はて、「素朴な正義感」とはなんぞや?

たとえば、とても貧しいひとがいた場合、そのひとを助けるために何をしたらいいかってことがある。

もちろん、お腹を空かせて死にそうになっていたら、まずは食べ物を差し出すのは当然のことだろう。

けれども、そのあともずっと食べ物を無償であげ続けることが果たして本当にそのひとのためになるか?という話である。

お腹が空いたひとにまずは食べ物を差し出す!…というのは、アンパンマンの正義である。

戦後の貧しい時代に、お腹を空かせた人にあんパンを差し出すのは正しいと思う。

けれども、その先はどうするのかってことだ。

2000年にバングラデシュに取材に行ったことがあるんだけど、バングラデシュには「グラミン銀行」といいうのがある。別名、貧者の銀行。

グラミン銀行は、貧しいひとに低金利または無担保でお金を貸し出す。借りたお金で、それを資本として仕事を始めることができるのだ。

ただ一方的に施すのではなく、仕事できる機会を差し出すのだ。

これは「素朴な正義感」とはちがう。素朴な正義感だったら、あんパンをプレゼントし続けるだけだ。

それは、結果的に本人のためにならず、状況を悪化させることもある。

善意、正義で始めたことが相手を救わないのである。

…というようなこと(例は私が挙げたもので、経済学の先生は別の例で説明してくださったけど、ここでは書かないでおく…)を、教えてもらって、へえ、経済学って面白いなーと思った。

そして、自分は案外この、「素朴な正義感」を持ったひとであることに気づいた。

昨日も正論について書いたけど、自分は理想を掲げるのが好きである。

斉藤和義が「月光」で歌っているように、

♪ 月に手をのばせ、たとえ、届かなくても…♪

と思っている。

たとえ、届かなくても、ひとは理想を持って生きていくべきだ…と青二才のように考えてきたのだ。

しかしね。

最近、自分のこの正義感によって、自分自身が苦しい目にあうってことに気づき始めた。理想をおろせ、というのともちがうけど、貫こうとすると、うつ状態になることに気づいた。

右の頬を打たれたら、左の頬を差し出せ!…までいかないにしろ、自分にはどっかそういう部分があった。

でもね、そうやって、左の頬を差し出して、また殴られて、キリストみたいに死んでいければいいけど、結局、「殴られた」「痛かった」という記憶は残り、表面的には乗り越えたつもりでも、その時の憎しみは深く内面化して、消えることがなく、自分をいつかむしばむ…ということがわかってきた。

(今日の夕方、ちょっとした本を読んでいてそのことに気づいた。取材で「素朴な正義」について聞いたせいもある)

……ということで、ストレートに「ひとによかれ」と思ってやったことが、他人にも自分にもちっともいい結果を呼ばないことがある…と今更ながら、知ったのだった。

大好きな映画「クラッシュ」にも、素朴な正義感が空回りして、事態を悪化させる例が出てくる。

人種差別をなくそうとしている若い警官は、黒人の少年を信用して車にのせるが、でも結局、信用しきれずに、偶発的に彼を殺してしまう…という苦いエピソードである。

無理していいひとぶったことが、結局、悪い結果を呼ぶのだ。

…ということで今夜はここまで。

もうちょっと、楽に生きることにしようっと。

いい人でいようとすることからおりたいと思いました。

え?

ちっともいいひとじゃないって…?

ほほほ、それはそれは失礼しました。