山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

「フルサトをつくる」

phaさんと伊藤洋志さんの共著「フルサトをつくる」を拝受した。



タイトルの「フルサトをつくる」を見ると、普通のひとは「?」となるはずである。

フルサトをつくるだって?そんなことできるわけないじゃん…。

だが、いや、しかし。

「故郷」はこれまでもいろいろ語られてきた。

有名なところでは、「♬ うさぎ追いし かの山 」で始まり、「♬ 忘れがたき 故郷」と歌われる、文字通り「故郷」という歌。

この曲における故郷とは、自然豊かで、楽しかった子供のころを思わせる、美しい場所。

思い出すとほろりとできる、心のより所みたいな場所だ。

石川啄木の短歌にも、ふるさとモノがある。

「ふるさとの 訛なつかし 停車場の 人ごみの中に そを聴きにゆく」

ふるさとが懐かしいので、自分の地方出身の人が降り立つ駅(東北のひとがやってくる上野駅か?)に、訛り(方言)を聞きに行くのだ。

これも、故郷=なつかしー、良き記憶に基づいたものである。

一方、室生犀星はこのように書く。

「ふるさとは遠きにありて思ふもの
 そして悲しくうたふもの
 よしや
 うらぶれて 異土の乞食となるとても
 帰るところにあるまじや
 ひとり都のゆふぐれに
 ふるさとおもひ涙ぐむ」

これは、ちょっと変化球であるけれども、故郷=懐かし-、よき場所、というのは、想像のなかだけのことで、ホントに帰ると、きついよーというものである。

けど、失った故郷への思いがあふれている。

いずれにしても、「故郷」とは、思い出したり、懐かしんだり、帰りたいけど帰れなかったりする、永遠の憧れの場所なのである。

まあ、そういうものかなあと思っていた。

自分には故郷と呼べる場所がなく、どちらかといえば、室生犀星派(落ちぶれても帰ったら、もっとひどい目に合いそうな場所)だったけれど、ここへ来て、まったく、新しいフルサト観が示されたのだ。

つまり、フルサトはつくっていいのだ。

この本でいう、フルサトとは、本の表紙にあるように、「帰れば食うに困らない場所」のことだ。

家賃の高い都会ではなく、自然の恵み豊かでほっとでき、そこそこの友人がいて、お金がなくても食べ物がもらえたり、泊まったりできる場所。

そういう場所を「フルサト」と呼んでいる。

これまでの故郷は自分が生まれた場所だったり、親が生まれた場所だったりして、主に血縁によって支えられていたわけだけど、そういうものがない場合、あるいは、あっても、なんとなーく自分にそぐわない場合
、故郷なし、帰るところなし、になってしまう。

それはきつい。

室生犀星派は、「きついねー」って歌っていただけだったけど、phaさんたちはちがう。

「なければ、つくればいいのでは?」というのだ。

そうかー、フルサトってつくっていいんだ。

そういう意味で、この本は全く斬新で、固定観念でがちがちになっていた故郷観をぶち壊し、気持ちのいい風を吹かせてくれる。

伊藤さんが主に、「フルサトの作り方」の実践について語り,phaさんが、その世界観(哲学?)について、じっくり聞かせてくれる。

考えて見たら、「故郷」のイメージなんて、実は歴史の浅いものかもしれない。近代化されて、地方からたくさんの若者が都会に働きにでてきた時代に、「帰りたいと思い出す場所」として、イメージされただけなのだ。

そんな浅いイメージしばられている必要はないよね。

「なければ、つくればいい」

ホントにシンプルで気持ちのよい提案だ。

phaさんの前作「ニートの歩き方」でも、「仕事」「お金」「働くこと」について、まったく違う方向から語られていて、大きく納得したんだけど、この本も秀逸。

都会暮らしでがちがちになった気持ちを、ゆるりと楽にしてくれます!

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