山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

SEX AND THE CITYにサヨナラを。

 ついに、SEX AND THE CITYが終わった。
最終回は、日本のテレビドラマみたいに、時間を延長しての50分バージョン。ううう。
 最初っから泣けてしまう。全てのシーンが美しく映る。パリはほんとに美しい。特に台詞がなくても、キャリーがハイセンスな服で歩いているだけで見とれる。センチメンタルな曲に身を任せたくなる。けど。

 このような感傷に流されて、本質を見失ってはいけない。

確かに、最終話は悲しい。別れの決まった恋人との最後のデートのようだ。だから、少々の欠点は見逃そうというもの。しかし。それではすべてを駄目にする。(って何を?)
最終話だからって甘く見てはいけない。違うものは違うって言わなくっちゃ。

ねえ、ほんとにこれでよかったわけ?

結局、SEX AND THE CITYはアメリカのドラマである、ということをしみじみ感じた。全てが前向き。そして、カップル文化万歳なのだ。

 キャリーはビッグと(本名はジョン!)と、サマンサはスミスと、ミランダはスティーブと、シャーロットはハリーと、それぞれの愛を見つけました。めでたし、めでたし、というわけ。もちろん、人生には、そういう時期もある。永遠を見つけた!と思える瞬間が。(ランボーか私は)しかし、問題は、それが長続きしない、ということではなかったか。
 ニーチェふうに言えば、「永遠は死んだ」ってこと。永久の愛を信じられないところから、近代の文学(物語)は、始まっているのではなかったか。

 私には見える。再び若い恋人にうつつを抜かすビッグの姿が。スティーブの穏やかさに飽きたミランダがもっとアグレッシブな男を求める様子が。癌を患い、はるか年上のサマンサを疎ましく思う瞬間を迎えるスミスの苦悩が。  彼等の今の愛は決して永遠ではない。

アメリカの離婚率は50%をすでに超えている。ええ、わかっている。せめてドラマのなかだけでも、幸福を見せて欲しかった、ということが。わかる、わかる。それがテレビドラマだからね。 
 けれどもせっかくペイテレビなのだから、視聴者を多少敵に回しても、真実を描いて欲しかった。ビッグもペトロフスキーも両方とるキャリーとか、第三の人物が現れ、さらなる展開の予感を残すとか。さらに、たった一人になってもNYに戻り、力強く歩く姿だってよかったはず。
  だって、これじゃあ、何も変わらないじゃないか。

あなたが運命のひとに出会えないのは、貴女自身の落ち度か運命のいたずらによるのです、ということになる。
 (ゲーテの「若きウエルテルの悩み」冒頭の要約)

 違うでしょう。運命のいたずらでも貴女自身の落ち度でもない。

そんなひと、いないと知ること。
誰かに(男に!子供に!)救ってもらおうと思わないこと、

 それがたったひとつの答えだと信じている。
 私の大好きな小説「あなた自身の生を救うには」(BY エリカ・ジョング)には、

「誰かに救ってもらうのではなく、自分自身の母親に自分がなること」

 というのがある。私はこの本を20歳の時に読んでから、この言葉をずっと信じてきた。その後、何度も恋愛したり、結婚したりして、やっとその言葉の真実にたどり着いたように思う。愛を信じるな、と言っているのではない。けれど、それが全てでそれさえあれば何でもOKだと甘えないように、と言いたいだけ。

 そういう意味で最終話のSEX AND THE CITYはちょっと残念だった。これを見た女性は、明日から再び、いい男探しに出かけないといけない。そして、もし、見つからなかったら?ドラマはそこまでの答えを用意していないのだった。

 資本主義に負けたSEX AND THE CITYにさよならを。