久しぶりに夜景の見えるレストランでディナーなどをした。
引きこもって、小説を書いていると、時々煮詰まってしまうのだが、優しい友人が無理くり連れ出してくれた。(アリガト)
きらめく東京タワーを見ながら、それでもテーマは、今、書いている小説の話になってしまう。片思いの恋人を語るようなもので、手に入りそうでなかなか入らない、その危うい気持ちはいくら話しても話足りない。
けれども、
話していると、自分が本当は、誰が好きなのか(この場合でいうと、何が書きたいのか)がはっきりしてくるから不思議だ。
今でもあらゆる依存症のもっとも効果的な治療法は、グループミテーィングである。
つまり、自分の気持ちをとことん話す、というもの。
思いを言葉にすることで、迷路に道を見つけることができる。
結局、ひとを救えるのはひとでしかない、ということ。
ディナーの後は、とあるバーへ。
ここで、本日、とても新鮮な女の子に会った。
彼女は18歳、そのバーで働いていた。
バーで働いているというだけで25歳くらいだと勝手に考えていたが、実際は18歳になったばかりだった。
なるほど、肌はつやつやだし、笑顔にはまだ幼さが残っていた。
中学を出てから、銀座→六本木と夜の仕事を続けてきたそうである。
高校に行かなかったこと、ずっと夜の仕事をしていることなどを、はきはきと明るく話す。
多分、かなり複雑で過酷な家庭に育ったのだと思うけど、けなげで、精いっぱいの感じがとても魅力的だった。
さらに驚いたのは、彼女の恋の話だった。
彼女は、あっけなく、「彼氏は50歳」と言った。
そして、いかに彼を愛しているか、できるなら、このまま添い遂げたい、彼になにかあったら自分が介護したい、と続けた。
彼女の気持ちに嘘はないようだった。
長く生きてくると、「そんなのありっこない」とすぐ考えてしまう。
18歳のかわいい女の子が、もっと遊びたい、もっといい目に遭いたい、と思うのが普通だと思うのだ。
でも、目の前にいる、ほんの少女が全身で彼に恋をしていることに、間違いなかった。
なんか、とても神聖なものを見たような気がした。
十代の恋は、永遠がまだ信じられるんだろうな、と年をとり過ぎた自分が少し悲しくなった。
あと数年もすれば、年老いた彼氏が面倒になり、もっと話の合う青年に乗り換えるかもしれない。それはそれでいい。彼女を責めない。
でも、もしかして、何十年後、彼を看取って、真珠のような涙を流す彼女に会ってみたいとも思うのだった。