山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

ヒトはなぜ服を買うのか。

本日、市川準監督の「トニー滝谷」を見て来ました。
映画としての感想は、c-reviewにいずれ書くのでそちらを読んでいただくとして、
ここでは「ひとはなぜ服を買うのか。それも必要以上に」について考えたいと思います。

「トニー滝谷」の妻(宮沢りえちゃんがやってる)は、ものすごくたくさん服を買うんです。それも高価なブランドもの。毎日毎日服を買いに出かけ、服専用の部屋までつくる始末。まあ、ここまでくると「買い物依存症」ってことになりますが、病名がついたところでなにも解決しないですよね。

「買い物依存症」になぜかかるかというと、「買い物」というのは、自分が主体になれる行為だから、らしいです。ですので、自分が「主体」になることの少ない女性がかかりやすい。つまり、買い物って「どれを買って買わないか」という決断ができるため、全能感を得られやすいわけです。買い物では「私が王様」になれる。

ふうん。
ところで、精神医学的なお話はともかく、
私は、「服を買う行為」とは、「未来を買うこと」なんだと思います。

私も買い物大好きですが、「服を買う」とは、その服を着て、どこかへ行く、誰かに会う、なにかをする、という未来の自分を買うことなんだなあ、ってよく思うんです。

「服」には物語があるでしょう。

たとえば、黒のかっこいいスーツ。それは「仕事するわたし」の物語。
(デスクワークの方たちはね)
私の場合は、仕事といえばロケや編集が主なので、ジーンズやカジュアルなセーターが必要なんですけど、これらをGAPでまとめ買いするときは、この先もテレビの仕事をやっていく自分を想像している。
動きやすくて着やすくて、汚れても平気な値段で、しかもシンプルだから、ロケなどでは気配を消すことのできる服・・それが自分にとっての仕事服です。

あとは豪華なお食事に行く時に着たいなあと思ってブランドもののワンピースなども買ったりします。
これも「誰かとする豪華なお食事」という未来あってこそ、なんだと思うんです。

あと、恋愛中もたくさん服を買いますよね。
これこそ、「恋愛」という物語に出演するための衣装だと言える。

そして、つい服を買い過ぎてしまうのは、やっぱり未来に対して、不安定な感情があるからかもしれない。
この先の自分がどうなるかをしっかりわかっていたら、そんなにたくさんの服はいらないでしょう。

なんの根拠もなくても、漠然とこんな服を着ることになるかもしれない、思ってもみない未来の自分を想像したくて、そうなってほしくて、何枚もキラキラした新しい服を買うこともあるよなあ。

自分の未来を落ち着いて想像できて、楽しんでお買い物できるうちは、それでいいよね。
問題は、いくら買っても、買い足りないように思ってしまうこと。
強迫的に買い続け、いくら買ってもちっとも嬉しくない。
それは結局、こうあってほしい未来を想像できなくなってしまうことなのだろうな。

そんなわけで、私は最近はほとんど服を買ってません。
ひとつには、経済的に厳しいからですけど、それだけじゃなくて、
なんだか、服がそれほどほしくない。

当分、できるだけ外に出ないで、書いていたいからなんですね。
とにかく、今、書いているものが一段落つくまでは、浮かれて出かけたくないなあと思っている。
(といいつつ、ふぐだ、イタリアンだとそこそこ出てますけど、これはごく限られた親しいひとたちとの息抜きだし)

そんなわけで、「服とは未来のことである」。
わかっていただけたでしょうか。