山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

しあわせのハンディキャップ

カート・ヴォネガット・ジュニアの小説「タイタンの妖女」(レビューはこちら)のなかで、
地球人VS火星人の戦争のあと、「徹底的に無関心な神の教会」なる宗教団体が生まれ、
その信者たちは、自分に見合ったハンディキャップを自ら背負う、というくだりがある。

例えば、美貌という恐るべき有利さに恵まれた女性たちは、古くさい汚れた衣装と悪い姿勢とチューンガムとお化けのような厚化粧でその不公平な利点を抹殺する。
あるいは、性的魅力たっぷりの青年はセックスを嫌悪している女を妻に選ぶ。

などなど、持って生まれた幸運が不公平にならないように、自らハンディキャップを背負うのだ。
そして、彼等は幸福を満喫する。(と書いてある)
なぜなら、火星との戦争のあと、もう、他人の弱みにつけこむ人間が誰もいなくなったから。

このくだりを読んでいて、しみじみ思った。
こういう文章が心を打つのは、現実では、ひとは、生まれながらにして、不公平であり、
なおかつ、
恵まれたものはそれをますます生かし、他人に弱みがあれば、どんどんつけ込むということが当たり前とされているからだった。

なんで急にこんなことを言い出すかといえば、マスコミをにぎわしている
フジテレビVSライブドアのせいである。

恵まれたもの(少しでも優位にたつもの)はその優位をとことんいかす。
相手に弱みを見つければ、とことん叩く。
その現実をここ数日で、はっきり見せられたように思う。

資本主義であるから、当然なんだけど、でも、なんだか、切ない。
資本主義はサメと同じて、永遠に進み続けないと死んでしまうんだよね。
だから、常に戦いが挑まれ、常に勝者がもとめられる。

友人のドラマのプロデューサーが会議を終えて、つぶやく。
「ほんとにみんな数字いのち、なんだな」
視聴率を信じる力が増しているという。
でも、それは簡単に説明がつくように思う。

私たちの世代は、小さな頃から偏差値という「数字」によって評価されてきた。
だから、実は「数字」が大好き。
「数字」の分かりやすさ、公平さに慣れっこになっているんだと思う。

はっきりしない評価・・「いい作品だった」なんて曖昧な言葉では納得しないんだよね。
「これ、視聴率とりました」は黄金の言葉。
「これ、百万部売れました」は遠くまで響く。

ドラマや小説は、そういう資本主義の枠のそとにあって、数字では切り取れないなにかを、ほんの一握りのなにかを、そっと伝えていくものであってほしかったなあ、と思う。

けれども、そんな夢みたいなことを言っていると、弱みにつけこまれて、どんどんいろんなものを背負わされるのだろう。
とはいえ、幸せのハンディキャップが、広まるようないつかを信じていたいと思う。

まだ、すべてが終わったわけじゃないよね?