わかりやすいハッピーエンドはともかく、
映画の結末ではこれからどうなるか、わらかない・・
という余韻を残したまま終わるものも多い。
何度も書いているけれど、「サイドウエイ」もそんな映画の一つ。
(以後、ネタばれあり)
主人公の、小説家志望の英語教師は、親友との旅行の途中で、ちょっと惹かれる女性と出会う。親友の狼藉のおかげで彼女から誤解をうけ、上手くいきそうだった恋愛は成就せずに終わる。
そんな折、3年もかけて書いた小説の出版がかなわないことがわかる。
小説も恋愛もうまくいかなくなり、最悪の主人公。
さらに運命は過酷で、彼の元妻が再婚/妊娠して、最近の殺人事件の犯人じゃないけど
「なにもかもいやになっちゃう」のである。
しかし、映画はこれでは終わらない。
最後に彼にチャンスがやってくる。
一度は彼を嫌った、旅先で出会った女性から、
電話がかかってくるのだ。
そこには、わずかな希望が・・・。
主人公はさっそく、雨のなか、車を飛ばして彼女に会いに行く。
彼女の住む街まで、彼の家から2時間くらいかかるのだ。
彼女は、留守番電話のメッセージに、近いうちに引っ越すと残している。
果たして、主人公の恋は成就するのか?
映画は、主人公が彼女の家にたどりつき、ドアをあけようとするシーンで終わる。
つまり、彼女と再会できたかどうかはわからないままなのだ。
私はこの映画を見て、あっさり、ハッピーエンドだと思った。
ドアの向こうには、笑顔の彼女がいて、「待ってた」と言ってから2人は抱き合うと予想した。
でも、それをわざわざ撮らなくてもいいじゃん、って感じだと思っていた。
ところが、世の中には、ドアの向こうに彼女はいない、
と予想するひともいるのだ。
その人と話すまで、そんな結末を想像すらしなかった。
だってさ、小説がだめになって、まだ気持ちの残っていた元妻に再婚されて、とにかくぼろぼろ状態、これ以上悪くなるとは思えないじゃありませんか。
多分に、こういう部分にそのひとの人生感や経験が表れるのだと思う。
思えば私は、いろいろひどい目にあってきたけど、
最後はいつもドアを開けるとそこに、
笑顔の愛する人がいたり、助けてくれるひとがいたように思う。
とことん拒絶されたことがなかったんだな、と思う。
だから、私はドアの向こうには必ず、笑顔の彼女がいると思ったのだ。
ドアの向こうには彼女はいない、と思ってしまうってことは
いつもすべてがNOと言う、って思っているからなんだよね。
でも、ここからさらに考えた。
ほんとに、すべてがNOと言ってるのだろうか。
もし、あなたが最後の希望を託して明けたドアなら、
私はきっと誰かがいると信じる。
信じられないとしたら、そもそもあなたは、
開けるドアを間違っているのではないかと思うのだ。
自分が本当に開けたいドアの前に立っているのか、もう一度自分に問うてみて、と言いたいな。
こうやって整理すると、私って案外、前向きで善良かも。
でも、小説を書くのだって、最後のドアには誰かいるはずって思いがあるから書いているのだと思う。
(ちょっと説教くさいか)
今、書いている小説がまさに
「最後のドアの前に立つこと」についてだからかもしれない。