山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

太陽を盗んだ男はどこにいる?

わけあって、長谷川和彦監督の映画「太陽を盗んだ男」をDVDで見る。
1979年の作品。
今見てもぶっちぎり、かっこいい傑作だと思うけど、これを見ていて、決して日本はこの映画のようには進まなかったのだなあとしみじみした。

沢田研二演じる、主人公、木戸は中学の教師。以前は熱血教師だったが、しだいに教育に情熱を失い、流されるように生きている。そんな男が、事件に巻き込まれたことをきっかけに、原爆製造に乗り出す、というのが前半のお話だ。

あれから26年たったわけだ。
相変わらず、流されるように生きているひとは多いと思うけど、まず、決定的な差は、女、恋愛に対する態度である。
木戸は原爆を製造した後、DJの美女ゼロ(池上季実子が演じている)と知り合う。ゼロは木戸に惹かれて、彼の後を追う。都内をさんざんふたりで歩き回った後、夕暮れの埠頭で、ふたりはキスをする。最近の映画ならこれでめでたしめでたしである。だって、恋愛は人生最高の出来事で、ただひとりの恋人をみつけられたら(しかも美人)それに勝るものなんて、この世にないってことになっているからである。

が、79年当時は違っていたのだ。木戸はキスをした後、ゼロを海に投げ込む。それは恋のいたずら的なお遊びではなく、「ここから先は女はいらない」という彼の意志表明だと思う。

つまり、当時は(ぎりぎり80年代直前では)、恋愛は人生の一大事ではなかったのである。男にはもっと重大なやらなくてはならないことがあったのだ。

さて、原爆を手に入れた木戸は、日本国民を人質にとり、政府に自分の望みを叶えるように脅迫する。
ひとつめは、ナイター(野球の)の試合を最後まで放送しろ、というもの。
次は、ローリングストーンズの日本公演の実現である。
ここらへんは、脚本の白眉というか秀逸なところだけれども、これを見ていて、最近話題のライブドアの堀江社長を思い出した。

そっか。
21世紀の太陽を盗んだ男は、こんなところにいたんだ。
プロ野球の球団をほしがり、人気のあるテレビ局をほしがる。
人類にとって、「太陽」とは原爆という多くの命を消す可能性のある武器ではなくて、「金」だったのである。

79年の太陽を盗んだ男は、国家の犬のごとき菅原文太と対決し、勝つ。
勝って原爆を抱えたまま、雑踏に消え行くのであるが、彼はあれからどこへいったのだろう。
原爆症を発症していたから、死はそう遠くなかったと思うけれど、どのみち、彼は80年代を生き延びることはできなかっただろう。
なぜなら、木戸のような形の反逆児は、時代とともに急速に姿を消したからである。

80年代は、ご存じのように、バブルを生んだ、アホ/バカ全盛の自分の欲望最優先時代だった。国家がどうなろうとしったこっちゃない。稼いだものが勝ちなのだった。
反逆児とは、そのお遊びに乗れなかったものたちだが、一方はオウム真理教的集団に育ち、一方は、幼児殺人犯を大量に生んだ。

79年の「太陽を盗んだ男」はどこにもいなくなった。
みんながこじんまり、身の回り3キロ程度の幸福を考えるようになった。
これはこれで悪いことではないとは思う。
なにも天下国家を考えることばかりが偉大なことだとは思わない。

が、しかし。
映画「太陽を盗んだ男」を見ていてしみじみ思った。もうこの手の傑作は決して日本映画からは生まれないだろう。なぜなら、そういう人物がいなくなり、そういう人物を描くことが不可能になったからだ。
これはちょっと悲しいことである。
つまり、26年という歳月は、日本人をこじんまりした幼児に育て上げたからだ。
自分のことしか考えられない、せいぜい、自分の好きな人、家族、恋人の幸せくらいしか想像できないひとたちの群れ。

少し前に見た、「モーターサイクルダイアリー」の主人公、チェ・ゲバラみたいに、他のひとたちの幸せのために命をかけるヒーローは存在しない、できないのだ。
(いたら、狂信者になってしまう)
それは別に悪いことじゃないって重ねて思う。
だけど。だけど。
ほんとにそれでいいんだっけ。オールジコチューの国、日本。

長谷川監督が、「太陽を盗んだ男」以来、一本も映画を撮ってないことは、このことと無縁ではないと思う。
やっぱり、さびしい。