山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

深夜の病院に似合うのは。

わけあって、毎日病院に通っている。
身体を壊したわけではなく、看病のためである。
看病といっても、完全看護の病院のため、さしあたってやることはない。
こちらの気持ちで通っているわけである。

すると、目の前にあるのは膨大な時間である。とりたてて何もすることがないが、そこを離れることはできず、場所の関係からできることは限られる。

テレビは設置されていないし、もとより、テレビを見る気分ではない。バラエティ番組は賑やかすぎるし、恋愛ドラマは集中できない。ニュースを見ると、世界中でひとが傷付いたり、死んだりしているので、落ち込んでしまう。

こういうときは、やはり本を読む。が、なんでもいいってわけでもない。手元には読む予定の本がたくさんあるので、どれを持って行くか迷う。
初日は、クッツェーの「夷狄を待ちながら」を持ってゆき、読んだ。これは傑作であるけれども、暴力と性愛がテーマであり、誰もいない病院の待ち合い室で一人で読むにはかなりハードだった。

そこで、考える。
もっと読みやすい現代小説がよいのではないか。
あるいは、資料として読もうと思っていたもの。韓国の文学関連のものや、知り合いの書いた原稿のゲラ(秀逸なノンフィクション)なども考えられる。しかし、資料はある程度の集中が必要だし、場合によっては、ノートに書き出したりすることもあり、深夜に気を紛らわす読書とはわけがちがう。

現代小説は、特に初めての作家の場合は、どんな読後感が待っているかもしれず、落ち込んでしまったり、不安を増長するようでは困るので、結局避けた。

それで、選んだのは、ディケンズである。やはり、こういうときは古典に限る。古典は、何世代にも渡って、多くの人が読んできた歴史にさらされているから、いたずらに傷付くことなはいし、気持ちが救われることはある程度保証されているのだ。

品質の保証された老舗の商品のごとしである。

そんなわけで、「二都物語」を殺風景な待ち合い室で読んでいるのである。ページを繰ればそこは、18世紀のヨーロッパのお話だけれども、描かれる人間は今とさして変わらない。その登場人物も作者もすでにみんな鬼籍に入っている。そう思うとなぜか、心安らぐ。ひとはつながっている。言葉で文学で思いで。

誰もいない夜につきあってくれた、デイケンズ先生に感謝するのである。