山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

心をいやすブログ

いろいろ怒りでぶちぎれそうになったり、ひとを恨んでしまいそうになったりすることもありますが、そういうときに、ふと、昨年の冬に亡くなった友人のブログを読むことにしております。

彼は40代でこの世を去ったのですが、ガンを煩ってから、ブログを書いていました。もともと機転の利く、ユーモアにあふれるひとだったので、重い病気のひとが書いているとは思えないくらい、冷静でありつつ、現状を笑う、余裕のある楽しい日記でした。しかし、昨年、彼はこの世を去ってしまった。

当然、ブログは閉鎖されるはずなんですが、今も続いています。それは彼の弟さんやそのお嫁さんによって書きつがれているからなんです。葬儀の様子から始まり、亡くなる前の数日のこと、さらに、病床で彼がなにをしていたか、はたまた、元気だったころの彼の仕事、お気に入りのアーティスト、本、そういうことをひとつひとつ、丁寧に、ブログに報告されているわけです。

長い間の友達でしたが、それを読むと知らないことも多かったのですが、なんといっても、彼がそれほど、実弟やその妻に愛されていた…という事実に胸を打たれます。弟さんは、彼が余命わずかとわかってから、仕事を休職し、彼の看病をしていました。40代の働き盛りの妻子ある男性が、兄の看病のために、仕事を休む…並のひとにできることじゃないと思います。そうして、最後の時間をともに過ごし、看取り、そのあとも、慈しむように兄の思い出を書いていく。それも涙に流れるのではなく、おもしろおかしく、読むひとを飽きさせない文章で綴っているのです。

これを読むとですねー、自分の我執に満ちた生き方が愚かしくなり、さっきまで、心をとらえていた怒りがやわまるのです。「生きているだけで幸せじゃないか」というあさはかな気持ちもあるかもしれません。死んでしまったら、もう、映画を撮ることも、小説を書くことも、約束がちがうぜ!と言ってけんかすることもできないのですから。

友人の死を見て、そのようにとらえ、生きている自分に安心する…というのは、とても失礼で、あさましいことだと思います。しかし、言い訳するなら、自分が彼の(今は彼の弟さんの)日記を読むのは、やはりそれだけではないように思います。ひとがひとの生を慈しむということ、ひとを思うということ、そういう人間の持っている根源的な善の部分に触れたように思えるからだと思います。そして、そういうものに触れることで、わたしのなかに芽生えていた、怒りや呪いの気持ちが収まっていく。わたしの怒りの原因とこの日記にはなんの関係もなく、重なるところなどないもないのに、知らずに、気持ちが落ち着く自分がおります。

かようなとき、もしや、文学…といっていいかわかりませんが、言葉による力というのをあらためて感じるのです。言葉が怒りを溶かしていく。そのような文章は狙って書けるものではない。狙ったとたんに失われるような気もします。あるいは、プロとは狙ってそういうことをできるひとのことを言うのだろうか。そのようなことも考えました。

…と書いておきながら、怒っている出来事については、菩薩のように許すわけにはいかず、納得できるところまで、闘う予定なんですけどね。じゃ、ダメじゃん。効果ないって?いやいや、いたずらに闘うのではなく、正義を貫こうとしているんですって。だって、命に限りがあるから。