山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

一夜の情事

長い間演出をやってきたけど、演出にはいつまだたっても自信がない。いつも迷いながら、ほんとにこれでいいかなと思いながら撮ってる。たまにうまくいくこともあるけど、やっぱり、根本的な部分で自信はない。

一方、文章を書くことには自信があった。根拠なき自信ではなくて、一応、大学生の頃より文章をほめられる機会が多かったし、就職してからも企画書を書くの早いし、通りもよかったし、初めて書いたシナリオもすぐにドラマになったし、文学賞などもいくつか頂いたりした。作家の故・三枝和子さんから、デビュー作の小説については、「文章に天賦の才がある」と言われ、某芥川賞作家さんからも、「語りは抜群にうまい」とほめてもらった。

これらのことより、すっかり天狗になっていたのである。自分は文章がうまいんだ、ひとの心に届くものを書けるんだ、と。

甘かった。大アマでした。こういう子供っぽい自信をもっているひとを待ち受けているのは、百戦錬磨の詐欺師のようなひとたちである。「文章上手いですね。小説面白いですね」と言われると、すぐ全面的に信じてしまう。これが、「きれいなひとですね」と言われたのだったら、「なにか裏がある」と疑うことができるんだけど、「書き物」関係については、たいていのことを鵜呑みにしてしまう。

それゆえ、小説をほめてくれたひとの言うことを信じてしまい、そのひとが悪徳宗教家であった場合など、すぐに仏像など買わされてしまうわけである。そういう天然の詐欺師とでもいうひとは、「このひとのここをくすぐれば金をだす」というポイントをすぐ読み込むらしく、一発で急所を知られてしまう。そして、もちろん、急所にグサリとやられる。

最近、ようやく目が覚めて、自分の書いたものを本当に面白いと思っていてくれるひとと、なにかの下心があって、ほめるひとを見分けることができるようになった。これはほんとは悲しいことではある。ほめるひと全部が、ほんとに面白いと思っていてほしいのが本音だから。 けれども、下心でほめられたのに乗ってしまうと、その後、とてもイタイ目にあうことになる。それは下心だったのだ、と知った瞬間の衝撃。例えると、「好きだ」と告白され、一夜を共にしたあと、「いや、誰でもいいから、ほんとは一回やりたかっただけなんだ」と言われることに似ている。うわっって感じ。

というよりむしろ、私など、一夜の情事のほうがまだ、傷が浅い。どっかで自分のニクタイなどなんぼのもんだと思って生きてきたからである。一方、それなりの自信をもってきた書き物がらみは、「あなたの小説をほめたのは仏像を買ってもらうためのおべんちゃらでした」などと種明かしをされようものなら、ガラガラと自信がくずれ、ぐさりと太い剣がハートを貫く。そして当分立ち上がれない。

が、もうふっきらないといけない時期に来たようだ。下心だろうと本心だろうとほめてくれたら、信じて飲み込むしかない。あるいは、おべんちゃらを真実に変える努力をすればいいのだと思う。

そうだ、もう、だまされやすい愚か者でいるのはやめなくっちゃ。結局、だまされるのは、どっかで信じたいからだんだよね。このひとはほんとに自分の書くものが好きなんだって。
ほんとは、お金をひっぱるだけのために言っているんだなんて、信じたくないし、認めたくないんだよな。なんて愚かなんでしょう。