山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

イマジネーションも使い方次第で。


今日、7月10日は、「料理通信」の発売でした。「オトナの片思い~やさしい背中」という短編小説を載せているので、よろしく、です。と宣伝をかましたところで。

昨晩はちょっとしたネットトラブルがあり、日記を更新できなかった・・というのは嘘で、夕方、逗子の家に移動し、疲れたので、少しだけ寝ようと思ったら、そのまま朝まで寝てしまった。不覚!海の近くは、風が涼しくて、クーラーがなくても気持ちよく眠れた。なので、途中で起きなかった次第。久しぶりに熟睡しました。昨晩は、台風みたいに海が荒れてたけど、不思議とよく眠れた。

今日は、海岸を犬と散歩。引き潮だったので、ずいぶん歩いた。ウニがたくさんいたけど、素人の私には手出しはできない。それと、必死にとっても、このあたりのウニは小さくて、ほんのちょっとしか身がないのよね。海にいたら、小学生と母親の大群が来て、潮干狩りを始めたので、早々に退去した。

そのとき、漠然と考えたこと。ある女性の作家がこんなことを書いていた。そのひとは独身で、収入もあるから、好きな時間に好きなことができる。例えば、真夜中に、家で美味しいものをつくって、美味しいお酒と一緒に好きなビデオを見ながら楽しむとか・・こんな楽しみ、ひとりだからできるんであって、結婚してたり、子供がいたらできるまい・・みたいなことが書いてあった。なるほど、普通の主婦にはそんな自由はないだろう。でも、なんかひっかかった。「でも、ひとりじゃ、寂しいんじゃないの?」ってことかなって思ってた。だが。

彼女とまったく逆の立場、3人の子供を持つ主婦のひとがこんなことを言ってた。三人の幼い子供が自分を求めて、「ママ!」と駆け寄ってくるとき、これ以上の喜びはないと思った。子供のいないひとはこれを経験できないんだから、不憫だと思った・・と。

独身女性のつぶやきと母親のつぶやきを比較して、私はどっちにも軽い不快感を感じたのだ。それは、自分の喜びを表現するとき、「これがないひとは不幸だろう」という視点に立っていること。あらかじめ他者を想定しているのだ。自分が、今手にすることのよろこびを、「なかったらどんなに不幸かしら」と想像することのはしたなさ、であった。

どっちも幸せなんだからさー。というわけで、小学生を連れた母親の大群を見ながら、そんなことを思うのだった。だってさ、大きな犬、2頭連れているとね、「ああ、このひとは子供がいないから、犬を飼っているのね、かわいそーに」って視線が飛ぶんですよ。ちがうのに。そんなわけで、海辺にて。