山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

「すごい」話。

みんな、「すごい」話が聞きたいんだと思う。
飲むだけで、すごい美人になれるクスリがあるとか、クリックするだけで、一億円儲かるとか、なんかそういう、「すごい」ことに巡り会いたいと思っているんだよね。私もそう。

マスコミも、やっぱり、「すごい」ことを知らせたいし、ひとは知りたいんだと思う。自分がひどい目にあうのはいやでも、自分が生きているうちに、「すごいこと」が起こっているって思いたいんだと思う。自分の生きてる時代は、「すごい」時代だとか、自分の国は「すごい」ことになっちゃってるとか。渋谷はすごいとか、女子高生はすごいとか、メールはすごいとか、グーグルはすごいとか。

いや、なに、「あるある」の納豆問題を見ていて思った。納豆は「すごい」って言いたかったんだよね。へえ~って感心したいのよね。小説や映画だって、基本はこの、「すごい」を体験することに、かなりの部分が期待されていると思う。もちろん、「なにも起こらない日常を描いている」的な作品が、評価されることもあるけど、その場合だって、これだけ、騒がしい世の中なのに、その何も起こらなさが「すごい」っておもしろがることで、根っこのところは、大して変わらないような。

宇宙人を見たいとか、殺人事件を知りたいとか、けど、現実には無理だから、SFとかミステリーがあるわけで。「すごい」願望って、誰にでもあるんだよなあ。私にもあるけど。

けどまあ、そうそう「すごい」ことがあるわけなく、滅多にないからこそ、「すごい」わけで。でも、見る人読む人は、「もっともっと」と期待するから、受けるためには、エスカレートしがち。ああ。

そういうことを考えつつ、空っぽなのに、「すごい」と思わせるためだけのテクニックを磨く方向に走らないように、気をつけようと思った次第です。だってさー、自分自身が、それほど、「すごい」体験したわけでも、「すごい」天才なわけでもないんだから、そうそう、「すごい」ことを装えませんぜよ。
かなり、眠い月曜日の夜。