山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

責任は誰がとる?

自分の小説のために、J・クッツェーの「動物のいのち」を読んでいる。

クッツェーはもっとも尊敬する作家のひとりですが、いやあ、これを読んでいても、そうか、畏れ多くも自分もこういうものが書きたかったのだなあと思う。(じゃあ、書けばいいじゃないか。書けるのか。ついでに、売れるのか?)

それはともかく、なかで、「なるほど」と納得する記述があった。なぜ、人には神が必要だったのか。いろんなことに責任をとってくれる相手を探していたのだ、と主人公は言う。例えば、人間は多くの動物の犠牲の上に生きている。大量殺戮をしている。こういうことに、少なからぬ罪悪感をもったとき、ひとは神を創造した。「神が許してくれる」と考えることで、自分たちを楽にした。そっかー。

「カラマーゾフ」を読んでいても、宗教なくして、神なくして、生きていくことがどれだけたいへんかってことがよくわかる。宗教って、ひとがもっと気楽に生きていくためには、不可欠なものだったんだな。けれども、19世紀の終わりあたりから、「神は死んだ」ってことになり、ひとはあらゆる責任を自分たちで引き受けようということになった。これって、実はかなりキツイことだったんだよね。だからすでに、スピュリュチュアルブームとかなんか、「人智の及ばないもの」を想定して、そっちに責任とってもらいたい…というひとがたくさん現れている。宗教っていうと、アレルギーがあるから、霊的とかなんとか、言い換えているだけで、内実は同じだよなあ。

「動物のいのち」では、ひとが動物を食べたり、実験用に使ったりで、好き勝手なやり方で殺戮していることについて、多くのひとの解釈は、「動物はひとのような意識や知性を持たない、生きる機械のようなものだから、傷みなく殺しても罪ではない」とする。デカルト的解釈。じゃ、まだ明確な意識を持たない赤ん坊は殺してもいいの?ってことになるけど、そうはもちろん、人間社会ではないっていない。(が、かなり昔は、小さい子は神の領域にいるとして、亡くなってもあまり嘆かないようにしたり、間引きだってあったし、ずいぶん残酷に扱われていたかもしれない)。主人公は、意識のあるなしに関わらず、勝手に命を奪うのはいやだ…という視点に立っている。この先、どうなっていくかわからないけど、(しかし、解説によると明快な結論はでないらしい。そうだろうな)、今の時点で、ひとが神をつくった理由にたいへん関心をもったのでそのことを書いた。

ずっと昔に見た俳優座の芝居で、「天皇制はなぜできたか」みたいなテーマがあって、それと似ていると思った。責任をもたせる存在をつくることで、マツリゴトをすみやかに進めるのだ…と言ってた。時代劇だったけど。

最近、宗教って必要かも…ってずっと思っていたんだよなあ。宗教なくして、ヒトはこの先、やっていけるのかなあ。宗教といわなくても、イデオロギーってやつでもいいのでしょうけど。今って、資本主義が宗教なんだよね。神はお金。とにかく、お金を信じるってことでやってるけど、お金だと、どうしても、やりきれないのではないかなあ。それで、苦しくなってる。短期間、日本の若者の間では、恋愛が宗教だったけど、これも10年ももたなかったね。恋愛っていうのは、相手が神になることだから、そんな普通の恋人が神になれっこないじゃん。ロマンチックラブイデオロギーの有効期間は短かったな。(自分も熱心な信者だったけど、もう改宗したな。習慣はやや残っているけれども)。

というようなことを、つらつら考えた。そして、そういうことを考えるのが好きだし、そういうことを書いたりするのが好きだったのだ、と思い出した。めちゃ泣けるラブストーリーとか、手に汗に握るサスペンスとか、どんでん返しを楽しむ読み物とかに、ほとんど全然興味ないんだよなあ。そして、書きたいとも思わず。

そんなんじゃ、本にしてもらえないから、ダメなんだけどさ。ま、いいや。ラブストーリーに見せかけて、こっそりサブテーマをはさんでやるからな。

ということで、クッツエー、すご