今日は、何度か仕事をしたカメラマン・久保真澄氏のお別れの会でした。
先月、急死され、地元大阪で葬儀が行われたのですが、東京にも彼を偲ぶひとがたくさんいる、ということで、久保氏が長くカメラを勤めた番組の関係者が集まって、お別れの会が開かれました。
享年51歳。
会場のレストランには、カメラの横で微笑む久保さんの写真と彼が愛した品々、ビートルズのレコードやジッポーのライター、カメラ、アフリカで取材中のノートなどが遺骨を囲んでいました。
会の主催者の挨拶で始まり、立食形式で、ゆかりのあったひとたちがスピーチをしていく…そういう形式の会でした。
私はそのメインの番組のディレクターではなかったけれど、関西でロケをするときは何度もお世話になりました。いつも一生懸命、対象に向かってくれて、一方で、余計なことは喋らない、寡黙で信頼できるカメラマンでした。
最後に会ったのは、友人のディレクター三浦真司くんの葬儀の時で、彼はひとりで大阪からやって来て、「たまりまへんわー」と言ってました。「これから、みんなで飲むから来ない?」と誘ったら、「ひとりで三浦さんがいなくなったことをかみしめたいから…」と去って行った後ろ姿を覚えています。
そうして、今度は久保さんが旅立ってしまった。
なんともやるせないけれど、でも、一方で、今日のお別れの会で、彼について、いろんなひとがスピーチするのを聞いているうちに、すこし気分が変わりました。
会の終わりで大阪からやってきた親族の方が、「彼の仕事について知らないことが多かったけれど、みなさんの話を聞いて、いい人生だったんだなーと思いました」と仰った。
それを聞いて、そうか、いい人生だったんだよなーと思えてきました。
もちろん、早すぎる死、やり残したこと、やりたかったこともたくさんあったと思う。みんなのスピーチだけで全部わかったわけではない。それでも、順番に語られるエピソードを聞きながら、やっぱり、いい人生だったんだ、そして、ホントにすてきなカメラマンであったんだ、と思いました。
そして、このような有志によるお別れの会というのはとてもいいなと思いました。
かつては、葬儀とは、宗教と密接にからんでいて、お寺や教会など宗教施設でやるものとされていた。そうなると、今回のように、すでに葬儀の終わった方を偲ぶことはなかなか難しい。
それぞれが大阪まで行くしかない。
でも、こうやって、普通のレストランで、集まることができる、というのはとてもいいなあと思ったんです。
そこにあるのは、神とか仏とかじゃなくて、亡くなったひとについて話したい、ちゃんとさよならを言いたい、というそのひとを大事に思ったひとの気持ちのかたまりなんですね。思いの集合体。
もちろん、宗教も、「死」に対する思いから始まった部分が大きいと思うし、それはそれで機能していると思うけど、宗教心などなくても、ひとを思う気持ちがあれば、それでいいなーと深く思いました。
そして。
寡黙なひとであったけど、彼のために集まりたい、と思うひとが、自然とやってきたことにあらためてその人柄を感じました。
もしかして、同業者で名前を知っていてもこの訃報を知らない方が居るかも知れないと思い、あえて、実名で書きました。
久保さん、おつかれさまでした。
いくつかの番組で、力強い映像をとってもらいました。ありがとうございました。