山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

携帯メール小説についての考察。

なぜか、「ポツドール」の「恋の渦」のDVDを再び見る。

セリフがたくさんあって、同時進行で4つのシーンが進むので、もう一度把握したかったのだった。それで通してみて気づいたこと。漠然と、携帯メールっぽい舞台ではないか、と思った。最近、仕事で、携帯メール小説(それもかなりたくさん売れてるやつ)を読んだけれども、携帯小説って、基本は会話である。

「携帯メール小説」とひとくくりで呼ばれているけど、私など小説好きは、つい「小説」の部分に目がいく。そして、「小説」のバージョンとして見てしまう。が、それはたぶんある種、古くさい見方だ。「携帯メール小説」とは、「携帯メール」がメインであるということ。事実ではない、架空のメールだという意味で、「小説=フィクション」とついているだけであって、これを「小説」のカテゴリーにいれると、怒り出すひともいるし、よくも悪くも違和感を持つひとが多いと思う。携帯で読める、単に短い小説と誤解しているひともいるけど、たぶん、絶対、大きくちがう。それなら、「超短編小説」になってしまう。

携帯メール小説は、架空のメールを読む楽しみなのだ。だから、三人称で書かれることはないし、会話が基本であるのだ。知らない誰かの、知らないけど、ちょっと気になる誰かたちのメールのやりとり、もしくは日記をこっそり読むような感覚。これが携帯メール小説を支えているのではないか。このことがわかってから、携帯メール小説の見方が変わった。これはこれで、ひとつの新しいジャンルなのだということがよ~くわかったのだ。

普段のメールのやりとりには、あらすじもないし、構成もないよね。現実とともに、毎日打つし、送る。そうやって変化していくものだから、一冊の本にまとまってみると、つじつまがあわなかったり、主人公のキャラクターが変わっていたりして、変な気分になる。けど、実際の人生にはあらすじもないし、映画や小説の主人公のように、綿密に計算された、統一感のあるキャラクターなんかないのだ。そうなんだよなあ。

で、ようやく、「ポツドール」の「恋の渦」に戻る。これって、四組の男女が出てくるんだけど、それぞれがいろんな場所でいろんなことをしゃべる。しゃべりまくる。それを延々見ることになるんだけど、それがほんとうに大変面白い。もちろん、じっくり練られているのだろうけど、(作者が脚本に時間をものすごくかけるという情報は得ているのだ!)、作ったようなセリフはなく、あたかもそこに彼と彼女がいるようなんだよなあ。絶妙なリアル感。

だから、フィクションにとっての定番、「盛り上がるところ」とか「クライマックス」とかっていうものが感じられず、かといって、いっときも目を離せず、そして、いきなりぶった切られるように、日常的な会話のひとことで終わるんだ。すごいなあ。えっと、携帯メール小説についてというより、やっぱり、ポツドールはすごいってことを言いたかったんだ。非常に似た感覚なんだけど、たぶん、芸術とデイレッタントの深い川があると思うけどね。